<病気について>
垣添:まず、長谷川さんのがん体験をお話ししていただけませんか。
長谷川:私ががんになったのは2010年、7年前です。肺腺がんで、ステージⅣと言われました。自覚症状はまったくなく、いきなりひどい咳が出始めて。それが尋常ではないんです。風邪かと思って寝ていたのですが、いっこうに良くならず救急病院に駆け込んだら、「風邪ではありません」とわかったという感じです。
垣添:それでがんだと判明したのですか?
長谷川:ステージⅣで、(全生存期間の)中央値も12カ月ぐらい。そんな感じでした。みなさんが言うように「頭が真っ白」です。ドーンと倒れるような、そんな経験の中で、ほぼ判断力がないまま抗がん剤治療に突入していきました。最初の薬がよく効いてくれたのです。その波を逃してはいけないと、どんどん治療を続けて、今8年目に入っているところです。
垣添:手術はされたのですか?
長谷川:はい。右肺を全摘しました。その後、合併症になってしまって、開窓(胸に大きな穴を開けて中にたまった膿を出す手術)を受けています。さらに、胸にはコルセットも入っている状況です。今も合併症のほうはあまりよくないけれど、がんのほうは、お腹に複数の転移があっても落ち着いてくれています。
垣添:がんとわかってから、どんなふうに情報を集めましたか?
長谷川:妻が一生懸命、駆け回ってくれました。たとえばセカンドオピニオンを受ける医療機関を見つけてきて、「今の病院の治療方針をどう思うか」と聞きました。「大丈夫ですよ、その方法が一番いいと思います」というようなやり取りをして、治療に向かっていきました。
垣添:そうすると、妙な情報にたどりついて、辛い思いをしたご経験はないですか?
長谷川:抗がん剤は、幹がしっかりした標準治療でした。先生が「一番いい治療ですよ」とおっしゃってくださったので、そこについていきました。
ただ、ちょっと具合が良くなると、ホームページを見て「奇跡の生還」とか「これで治った」とか出ていると、治らないと言われている立場ですから、やっぱり抗いきれないところもありました。玄米の粉を買いましたし、ヨーグルトもいっぱい食べたな。ヨーグルトだから別に高くなくていいかなと
垣添:お仕事はどうされましたか?
長谷川:私はフリーランスで仕事をしていたので、抗がん剤治療が始まって仕事ができない状態になりました。そのまま3、4年が経ちました。
垣添:その間、収入がなかったという……。
長谷川:はい。フリーランスなので保障的な面でも一番弱く、苦労しました。しかし、たまたまがん保険に入っていたので助けられました。あともう一つ、同じフリーランスの仲間が助けてくれたんですね。みんなでカンパをしてくださいました。
垣添:いい仲間をお持ちで、よかったですね。
<患者会を立ち上げた経緯>
垣添:長谷川さんは肺がん患者の会「ワンステップ」(NPO法人)を作られていますね。いつごろ立ち上げたのですか。
長谷川:2015年の4月です。治療から5年たったときですね。最初の薬は効いたけれど、ずっと効いてくれるわけではありません。不安なので、いろいろ探るわけですよ。
ホームページを探って、一番頼りになり、自分の気持ちが軽くなったのは、やっぱり、同じ状況の人たちと話ができることでした。肺がんの先輩方のアドバイスを受けたり、仲間と相談しあったり。もしくは病気になりたての人に自分がアドバイスしたり。そんなことをネットでやっていたんです。がんになって2年、3年経ったころでした。
垣添:それが患者会につながったわけですね。
長谷川:はい。肺がんのステージⅣは厳しくて、相談元となっているホームページがなくなってしまうんです。作っている方が具合が悪くなると、消えるんです。
すると、みんなの居場所がなくなってしまう。それが非常に辛く、ショッキングでした。だったら自分で患者さんが集まれる場を作りたい。そう思って患者会を始めました。
<肺癌学会と患者会 タッグを組んで生まれたこと>
垣添:長谷川さんのご体験を聞いておられて、澤先生は、呼吸器内科の専門医として何かお感じになられたことはありますか。
澤:長谷川さんは前向きで、バイタリティーがありますね。全国に患者会はほかにもあるんですけれど、それぞれの規模は小さいんです。小さな患者会をうまくつなげて、NPO法人「日本肺癌学会」の「肺がん医療向上委員会」(学術団体、患者支援団体、製薬企業、報道機関らが連携して2013年に設置。委員長は中西洋一・九州大学教授で、澤さんは副委員長)が支援する。今、タッグを組みながら盛り上がっています。
垣添:具体的などのようなことに力を入れていますか?
澤:欧米で盛んなアドボカシー(患者支援・提言)です。活動は国内にとどまりません。世界肺癌学会が各国の患者さんを招待していますが、昨年は長谷川さんに、ウィーンで開かれた世界肺癌学会に行っていただきました。患者の代表として見学したり、国際的なアドボカシー活動を見たり。それを日本でフィードバックしていただく。そんな後押しをしています。
長谷川:患者会と医師の共同という部分で言えば、先生方から応援メッセージが来るんです。「医療者だけでは医療は発展しません。患者の思いを伝えてください。私たちが最高の治療をしていると思っていても患者さんがそう思わなければ、最高の治療ではない。最高の治療にたどり着くにはあなたたちの声が必要です」と。すごくうれしいですね。
日本には今、9つの肺がん患者会があるんですけれど、横のつながりで1つの組織を作っています。「日本肺がん患者連絡会」といいます。
垣添:患者会はしばしば、なかなか意見がまとまらないと聞きますが。
長谷川:それはあんまり感じていません。
垣添:けっこうですね。
長谷川:肺がんの延命が可能になってきたのはここ数年で、それぞれの患者会が小さいので、助け合わないと何もできないのです。
たとえば学会の先生方と共同で政府に要望書を出しました。「薬を早く承認してほしい」とか「医療のエアポケットを何とかしてもらえませんか」とか。9つの患者会が大きな目標に向かって意思統一して、先生方と一緒に動いたのです。要望書を出したとたんに改善された。みんながあちこちを向いていることはありません。
垣添:本当に理想的な形で学会と患者会と連係していますね。
澤:長谷川さんは、自分たちで各地で患者会を開いて、我々を講師として呼んでくださっているんです。一方的な講演ではなくて、同じ背景をもった患者さんたちが小グループに分かれて話し合う。各グループのテーブルの間を我々専門家が回って、質問に答え、アドバイスしていく。この方法は、長谷川さんが考えたのですよね?
長谷川:はい。肺がんにも種類があって、タイプや状況によって抱える悩みが違いますよね。普通の講演ではなかなか質問しづらいですが、少人数で集まっているところへ先生が来ていただくと、本当にズバズバ聞ける場になると思っています。
小さなセカンドオピニオンがそこで始まります。ほかの人に対するオピニオンを、自分の状況に照らし合わせていける環境が生まれました。
<今後のがん治療に対して出来ること>
垣添:がんで苦しんでいる患者さん、あるいは家族を含めてできるだけ減らしていくという観点で何かご提案はありますか。
澤:少しでも治療成績をよくするためには、新しい治療の開発が必要です。それぞれのタイプに応じた新しい薬を、できるだけ早く治験を終わらせて、患者さんの元へ届けたい。そのためにも、患者会のネットワークを通じて、この新しい薬の治験はどこの病院でやっているかという情報の提供の場を作る必要があると思います。
垣添:私どもの「がんサバイバー・クラブ」も、日本対がん協会の患者支援の立場から展開したいと考えています。
長谷川:患者は、患者になりたてのころ、心がどんどん落ちていくんです。そこから何とかはい上がってくる流れです。そのときに、「1人じゃない、仲間がいる」と思うと、すごく戻りやすいのではないでしょうか。がんサバイバー・クラブが、仲間のいる大きな幹になれば、患者にとって喜ばしいと思います。
垣添:今後ともぜひお二人にいろいろご協力、あるいはご支援をいただけると思います。今日は貴重なお時間をありがとうございました。
お話を終えて
肺がんのように楽観できないがんでは、患者会の運営もなかなか難しいと思います。長谷川さんご自身、大変な治療を受けてきました。今はとても前向きですが、落ち込んだこともあるでしょう。それらを乗り越えて、患者会と肺癌学会が協力して、患者力を磨いたり提言をしたりしていくモデルを築き上げたことは、すばらしいですね。ほかのがん種の患者さんなど、多くの方の参考になる先進的なモデルでしょう。長谷川さんのお話を伺いながら、がん医療の未来の希望がふくらんできました。【プロフィール】長谷川 一男(はせがわ・かずお)=1971年生まれ。フリーで仕事をしていた2010年、肺がんのステージⅣと診断される。2015年に肺がん患者会「ワンステップ」を設立。「仲間を作る」「知って考える」「発展・継承する」が目指す3本柱。家族は妻と子ども2人。趣味はスポーツ観戦。
【プロフィール】澤 祥幸(さわ・としゆき)=1957年生まれ。1984年、岐阜大学医学部卒。大阪府立羽曳野病院(現・大阪府立呼吸器アレルギーセンター)などを経て、1993年、岐阜市民病院へ。2011年、診療局長(がんセンター長)。2006年、日本初のがん薬物療法専門医。2014年より国際的な肺がん患者支援活動に参画中。