<病気について>
垣添:私はがんセンターの院長の時に、大腸がんを治療し総長の時代に腎臓がんが見つかって、これは部分切除をしました。早期がんですから簡単に治すことができました。天野さんの場合はおいくつのころがんだと言われたのですか。
天野:27歳だった2000年に悪性リンパ腫と診断されました。当時は、まったくがんに対する知識もなかったですし、ましてや20代でがんになることがあるということすら知らず、大変な衝撃を受けました。
垣添:いわゆる頭が真っ白になるというものですか。
天野:頭が真っ白になるような経験をしましたが、なかなか周りの人に言えないですよね。家族にまずどうやって伝えたらいいだろうかと一週間ぐらいもんもんと考えていました。自分自身そもそもどうなるんだろうか、命が助かるんだろうかと・・・。
垣添:その時に悪性リンパ腫に関してどんなふうに勉強されましたか。
天野:まずは病院の帰りに本屋に行きました。でも本屋に行ってもそれほど詳しい本があるわけではなく、よくわからない。インターネットで調べても断片的な情報しか当時はありませんでした。
垣添:それはつらい話ですね。会社のほうはどうでしたか。
天野:会社はすごく理解があって、ゆっくり治してきなさいというようなことを言われました。
会社は、僕のことを心配してはくれるのですけれど、(治療が)終わった後にすぐにしっかり復職してくれみたいな感じで。ちょっとそれで会社とコミュニケーションが十分とれなかった、という苦い経験はありますね。
<治療を通して感じたこと>
垣添:治療はどのくらいの期間やりましたか。
天野:7カ月以上入院治療することになりました。
垣添:その間、苦しみとかに一人で耐えたということになるのですか。
天野:もちろん家族や友人は来てくれましたけれど、やはりどうしても自分自身の痛み苦しみというものをちゃんとわかっていてもらえないな、という気持ちはありましたね。
垣添:そうでしょうね。
天野:例えば皆さんが「がんばんなよ」とか「もっと前向きになった方がいいよ」とか「もっと明るく生きた方がいいよ」とか言ってくれますが、僕も正直がんと告知されてがんばってますし、明るく振る舞いたいとわかっていても、治療がつらくて振る舞えない。言われれば言われるほど落ち込んでいくというところはありましたね。
垣添:抗がん剤治療の副作用とか、精神的、肉体的に辛い時に同じような体験をしている人と話ができたら生活の助けになると思われましたか。
天野:もちろんです。より大きな病院に転院したとき、そこで初めて同世代の血液がんの患者さんにたくさんお会いし、自分と同じようなつらさや苦しみを抱えながらがんばっているんだということを知ることができて、ものすごく励みになった記憶があります。
<患者の望むがん治療とは>
垣添:医療従事者、特に主治医、担当医とのつきあい方に関して、どのような考えをお持ちですか。
天野:最終的には、やはり人と人とのつきあいになってくると思います。私自身、2度再発をして、かなり厳しい状態になったときに、主治医の先生は、私の目を見て「天野さん、私たち医師は、患者さんがどんな状態になっても、できることはあると信じて治療しています。一緒にがんばりましょう」とおっしゃってくださったのです。それは、どういう意味かというと、当時は、治療できる薬が減ってきていて、すぐにできる治療法はそんなにない、ほとんどない状況でした。「何かすごい新薬があります」「革新的な治療薬があって、あなた治りますよ」っていう話しはまったくなかった。自分自身が見捨てられるかもしれない。皆が支えてくれないのではとの思いにかられる時が一番辛いと思うんです。
そのため、医療者の方にぜひお願いしたいのは、医師と患者とか、そういったまったく別個の存在ではなくて、ともにがんと向き合うパートナーなんだっていう意識をもっていただくことが僕はすごく重要なことだと思っています。ひとりで抱え込まずに、たとえば看護婦さんであるとか、その他メディカルスタッフに対して、自分はこういうことで困っているんだというのをぜひ訴えていただきたきたいなと私は思います。
<サバイバー・クラブのめざすこと>
垣添:がんと言われた時に「なんで自分だけがんになったんだ」といった強い疎外感や孤独感、さらにいつ再発するのかという恐怖や不安にさいなまれることがあるわけですよね。がんの最新情報や他の同じような患者さんの情報などを届けて、がんの患者さんを決して孤立させることなく、治療が終わって社会に復帰して元気に暮らしていただくのをずっと支援していきたい、と考えたのが、がんサバイバー・クラブです。当時もしそういうものがあったとしたら、どうでしたか。
天野:自分と同じような患者さんがどういった苦しみをもって、どうやってそれを克服していったのだろうか・・・・・。ちょっとしたことなのですが、そういったことは同じ患者さん同士の支えあいということが大切になってきます。
垣添:治療した後、退院生活とかそういうことですか。
天野:そうですね。がんは治療して終わりというわけではない。一般的には5年間再発をしなければ大丈夫と言われているがんが多いですけれど、その間多くの患者さんが再発するかもしれないという恐怖を感じながら暮らされているので、そういう時に同じがんの患者さん同士の情報であるとか、そういったふれあいの場があれば違うと思います。
垣添:それはネット上でもぜんぜんかまいませんか?
天野:インターネットを通じても、またフェイス・トゥー・フェイスでもどちらでも必要だと思います。
垣添:サバイバー・クラブに、もし患者さんががんだと言われてショックを受けた時にたどり着いていただけたらと思います。たとえば悪性リンパ腫だったらこういう治療があって、どのくらいお金がかかるのか、治療期間はどのくらいか。他の悪性リンパ腫の方がどんな治療を受けてどういう経過をたどられたかなど・・・・・。それも医療の専門家がチェックした内容をアップしようと思っています。そういうのがあると助かりますでしょうか。
天野:あると、まったく違うと思います。私自身、当時は入院治療が中心だったので、ちょっとした生活上の工夫とかすごく心配になって気になっていました。入院治療中であればまだ同じ病気の患者さんに聞くことができますが……。
垣添:退院した後はそれができない。
天野:同じ病気の患者さんとの接点が少なくなっていく面もあるので、なかなか聞きたいことも聞けない状況があると思っています。
垣添:それは大変貴重な情報ですね。サバイバー・クラブがもう少し成熟していった時にそれは是非考えていきたいと思います。
天野:是非お願いします。
<がん患者の要望を発信する>
垣添:これから先どんなふうに全国がん患者連合会を育てていこうと思っていますか。
天野:がんになっても安心して暮らせる社会は何なのかということを考えた時に、社会に対してもっともっとがんの患者のことを知ってほしい、がん患者や家族に対して目をむけてほしいという発信をしていくことを考えています。
垣添:ご自分の体験を、世の中に広げていくという中で、最終的には国のがん対策みたいな政策に、政策提言をするというような力が出てくると患者会として、あるいは個人としてすばらしいことだと思います。そこまで頭においていらっしゃるのですね。
天野:はい。政策提言というのはもちろん重要で、それは実際われわれ全国患者団体連合会でも改正がん対策基本法とか、国のがん対策推進基本計画に対して要望書を提出などしてますが、社会の中で支えて、また理解していただかないと、なかなかがん患者さんの悩みは減らないなということを感じています。そういった活動も支えていきたいです。
垣添:それはものすごく大事ですね。つまりがんは確かに医学的な診療の対象ですけれど同時に社会的な問題でもあり、経済問題でもあり、ものすごく深い
天野:おっしゃる通りです。心の痛み、社会的な痛みといった部分に対してはもっと社会全体で支えることができるのではないかと思っています。
垣添:その通り。サバイバー・クラブの大きな目標は、がんの患者さん家族、あるいはサバイバーを孤立させないよう、治療から治療が終わった後まで全過程をずっと支援するのだということを申し上げました。やはり患者会とも力を合わせて、がんという問題にきちんと向き合っていくような、そうした支援をする体制としてサバイバー・クラブを作っていきたいと思っています。ぜひ天野さんの団体にも協力していただきたいと思います。
天野:はい。ありがとうございます。私たちももちろん協力できることがあれば協力させていただきたいと思っています。特に社会への理解を深めていくためは、我々ももっともっと発信をしなければいけない、と思っています。
<がん患者支援の体制を広げたい>
垣添:がん患者団体連合会としても、サバイバー・クラブとしてもお互い連携して、がんの患者さん、家族、サバイバー、そしてもうちょっと広くゆるやかにとれば、これからがんになるかもしれない一般の人たちも巻き込んで、ぜひ一緒にやっていいきましょう。
天野:ぜひよろしくお願いします。私も、患者支援に関わってきて、患者と医療者の連携だけでは解決できない問題がまわりにたくさんあって、おそらくそういった方を巻き込んでいかないと、なかなかがん患者さんの本当の助けにはつながらないと感じています。
垣添:国の目標となっている、がんになっても負けない社会をつくろうという、まさにそれに向けて、がん患者さんや家族、サバイバーをきちんと支援するような体制をぜひめざしましょう。よろしくお願いします。