先日、抗がん剤による脱毛状態から伸ばし続けた髪を、約6年ぶりにカットしました。
ひたすら伸びに伸びて、その長さは90cm近く。メーテル級です。
伸ばしていた理由は単純。脱毛後に生えてきた髪が大変ステキなカールヘアー(名付けて、抗がん剤クルクル)だったから。もったいなくて切らないでいたら、とてつもないスーパーロングになってしまいました。
そんな適当な理由だったのですが、ここまで伸ばしてみたらさまざまな意外な発見がありました。今回はそんなお話です。
脱毛すると「すべてのヘアスタイルを体験できる」!!
現在、抗がん剤はかなり進化しています。脱毛しない薬も多く出ていますが、私が使った薬では、主治医の「絶対に脱毛します」という言葉通り見事にボウズ化しました。
投薬前にロングだった髪をボブにカットし、しばらくしたら副作用で自然とボウズに変身。薬を終えると一気にボンッ!と髪が生え始め、ミリタリーっぽいスーパーベリーショートに。次いでフレンチ風なベリーショートから、抗がん剤クルクルを活かしたウェーブのボブ。さらにロング、スーパーロングと、すべてのヘアスタイルを体験することができました。
治療での脱毛は喜んでなるものではないけれど、自分からはなかなか手が出せないスタイルを楽しめるのは、脱毛した人の特典といえます。
新しく生えてきた髪は、あまりにも美しく、まっさら。脱毛中は、「ベリーショートまで伸びたら金髪にしよう」と思っていたものの、とても手を加えることはできませんでした。
その後、どんどん長くなっても色も変えず、パーマもかけず。すると、スーパーロングになってもとてもいい髪質をキープできるとわかりました。髪があって当たり前だった過去の自分が、いかに髪を痛めることをしてきたのだろうと思ったものです。
6年間の軌跡。写真を並べてみると、なかなか面白い。みなさんもいかがでしょう。
さらに興味深かったのが、「場所によって髪が生え始める時期が違う」ということ。特に顔まわりや後頭部の生え際は、けっこうな量がほかの半分程度の長さとなっていました。抗がん剤終了の3年後くらいから生えてきたのだろうと推測しています。たくさんといっても全体からするとほんの一部分。こまめに切っていたら気づかなかったかもしれません。
それほどの年月をかけて、細胞が復活しようと努力していたのではと想像。薬の強さを思うと同時に、身体の修復機能のスゴさを思わずにはいられません。
「部分的になかなか髪が生えてこない」という話を、がんの仲間から時々聞きます。誰にでも当てはまるわけではないと思いますが、もしかしたら、今まさに、身体ががんばっている最中かもしれません。ちょっとだけ、身体を信じて待ってみてはいかがでしょう。
長い髪は、支えてくれた人の歴史
たしかに、ボウズのときは洗うのも部屋の掃除もとても楽で、その差を考えると、今はかなりの時間を髪に費やしているに違いない。非常に名残惜しくはあったのだけど、切ることにしました。
この髪の長さは、私一人の時間を物語るものではなく、主治医や看護師さんなど、抗がん剤治療中に支えてくれたたくさんの医療者との歴史でもあります。切る前に主治医に見せると、毛先を眺めながら「じゃあ、このあたりはがんばっていた髪なんだね」と感慨深そう。「最後に念力を送っておきます」と、パワーまで込めてくれて、ますます切らずにはおられなくなりました。
ヘア・ドネーションをしない2つの理由
ヘア・ドネーションとは、自分の髪を寄付すること。集めた髪からウィッグを作り、主には脱毛した子供たちへ無償で贈るための活動です。近年、大人だけでなく子供も活動に参加するなど、世界で急速に広がりを見せています。
私が切った髪は相当な長さ。でも、ドネーションはしないと決めていました。その理由は2つあって、一つは、自分にとってこれ以上なく思い出深い時間の表れだから。もう一つは、ドネーション活動の広がり方にちょっとした懸念を感じているからです。
活動自体は、とても素敵なもので、私の周りでも何人も参加しています。ウィッグを受け取ることで、助けられている人もたくさんいるはず。
しかし、「脱毛したらウィッグを着けなければいけない」という先入観がさらに強く定着しそうな気もしています。そもそも世間一般には、がん治療での脱毛にネガティブなイメージしかありません。「隠すべきもの」と考えられてしまうと、がんになった人がますます住みにくい社会になってしまいます。
脱毛は、「恥ずべきもの」ではありません。大人でも子供でも、ウィッグや帽子をかぶるのは選択であって、絶対ではないのです。ドネーションをする側がそのあたりを理解していないと、せっかくの活動がマイナスを生んでしまうように思いました。
脱毛は、生きる努力の現れです。ドネーションは、助けるためというよりも、応援する気持ちでしてもらえるといいなと思っています。
目に見える形は、たいした問題じゃない
私は過去のエッセイで「脱毛をいかに楽しむか」といったお話を書いてきたとおり、まったくイヤではなかったし、逆に非常に興味深い体験でもありました。そのように思う人も、意外とたくさんいます。子供でも辛く感じる子もいれば、へっちゃらでいる子もいます。
感じるものは、人それぞれです。感じ方に「こうあるべき」というものはありません。「こう感じてはいけない」というのもありません。それが自分で感じるものであれば、まずはその気持ちを受け止めることが大切です。
私は一生のうちに、抗がん剤を受けたり、脱毛したりするなんて思っていませんでした。しかしその立場になって気づいたのは、無意識にたくさんの偏見を持っていたことでした。ちょっとした思い込みや、自分の知識のなさから、見えるものが限られていたのです。
今も、経験も知識も十分ではないし、きっと、見えていないものはたくさんあるだろうと思っています。ただ、以前と違うのは「見えていないものがある」と知っていること。そして、「目に見える形はたいした問題じゃない」と感じるようになったということです。自分の外見が治療で変化したことで、人の心のなかにあるものを、もっと大事にできるようになった気がします。
ところで、長い髪は、切ってもひたすら長い。
大切な思い出の品ではあるけれど、どうしようかと持て余し中です。