ネクストリボンでは毎年、「ネクストリボン×BIG UP!」のイメージソングの受賞者が発表される。今年は優秀賞に、*はなおと*、忠津勇樹、Arisaの3組のみなさんが選ばれ、曲に込めた思いを語り、受賞曲を歌った。また、歌手の木山裕策さんが昨年に続いて登壇。がんになって変わったことをテーマに講演し、ネクストリボンキャンペーンソング「幸せはここに」を熱唱した。
朝陽を浴びてここで生きる
イメージソング受賞者として、最初に舞台に上がったのは、*はなおと*。岩手県花巻市出身の男女2人組みで、活動10年になる。*はなおと*という名前には、「四季を彩る『はな』のような『おと』を届けたい」という願いが込められている。 ボーカルの仙波明夏(さやか)さんの父は50代で食道がんになった。首都圏で活動する仙波さんと、花巻で暮らす父や家族。みんなが大変な日が続いた。 「どんなに遠く離れていても、お互いの生きる場所でしっかり根を張りながら、同じように昇る太陽を見て心を通わせることができる、という思いで作りました」 曲は「おなじこの陽を見て」。
〽なかなか会えないでいる あなたの 笑顔を思い出します 病気がちで 体の弱い あなたを 少し心配しています …… 朝陽を浴びて ここで生きる そう決めたんだ のぼれ くだれ 立ち止まっても 進め
*はなおと*。左は仙波明夏さん、右は安藤孝人さん。花巻は宮沢賢治のふるさと。花巻イーハトーブ大使も務めている。「あなたが大切だ」って言ってくれるだけで
2人目の忠津勇樹さんは、俳優の山崎努さんに憧れ、新卒で就職した会社を3年で辞めて、劇団俳優座の演劇研究所に入所した。今は劇団アナログスイッチに所属する、俳優・歌手である。こう語った。 「愛の歌を作りたいと思いましたが、大阪人でもあり、こっぱずかしかった。そこで、家族、恋人、友人……誰かに言われて一番うれしい言葉は何だろう、と考えました。僕の答えは『会いたい』。愛を感じます。少しでも、誰かの『会いたい』を後押しできれば」 曲名は「simple」。
〽会いたい 会いたい 会いたい 会いたい 会いたい 会いたい 「命は大切だ」なんて誰かに言われるなんかより 「あなたが大切だ」って 「あなた」が言ってくれる ただそれだけでいい
忠津勇樹さん。HYの「366日」のカバー動画はYouTubeで100万回再生を記録した。きみの悲しみなんてぼくが全部受けとめるよ
最後は、Arisaさん。宮城県仙台市で活動するシンガーソングライターだ。 受賞曲の「まだ」は、2018年に祖父を亡くし、旅立ちを受け入れ切れていない状況で作った。祖父は、母から見れば父。母に向けて書いたという。 「生きていると、ステージで歌うようなうれしい機会もあれば、大切な人を失う悲しいこともあります。大切な人と寄り添い、支え合って生きていきたい、という思いを込めて作りました。ファーストシングルになって、大切に歌い続けてきた曲です」
〽きみの横で話を聞くくらいしかまだできないけど 嬉しいこと悲しいこと全部受けとめて生きてく もっとずっとそばにいるからもう泣かないで きみの悲しみなんてぼくが全部受けとめるよ もう泣かないで
Arisaさん。2017年11月より音楽活動をはじめる。「まだ」はYouTubeで公開している。弱音も吐くけれど意思疎通がしやすいお父さん
また、昨年に続き、歌手の木山裕策さんが壇上に上がった。今年の講演テーマは「がんが教えてくれた、自分らしい生き方」。 木山さんは1968年生まれ、大阪府出身。4人の男の子の父親である。リクルートで課長として100人の部署を率いていた2004年、甲状腺にがんが見つかり、左側の甲状腺を摘出した。管理職は向かないと悩んでいた時期でもあった。 「がんで人生が変わったといっても、過言ではありません。やりたいことを、ずっと先延ばししていた。がんになったことで、原点に返って、歌手を目指しました」 深夜のオーディション番組に応募して、2008年2月、39歳でデビュー。その年の紅白歌合戦にも出場した。
木山さんは、人とのコミュニケーションの取り方も変わったという。 「以前は、自分がすべての責任を負うと考えていました。その考えを捨て、抱え込むのもやめました。また、悩みを人に相談するようになった。すると、相手も同じように相談してくれる。そういう関係こそが大切だと学びました。家族に対しても同じです。弱音も吐くけれど意思疎通がしやすいお父さん、になりました」
復職後、多くの人に助けられた。今は、困っている人がいれば助けたい、と思う。がんの人をそうでない人が支えるシステムや気持ちがあれば、もっと生きやすい世の中になる。 「世の中に笑顔を増やしたいので歌っています」 それから、ネクストリボンのテーマソング「幸せはここに」を熱唱した。
木山裕策さん。ネット広告関係の会社員と二足の草鞋を履く。歌唱力は今年も健在だった。