ときに真剣に、ときに笑い合いながら
ドアを開け放ち、大きな扇風機が回る部屋で、参加者たちが円形になってイスに腰かける。 乳がんになって落ち込み声も出なくなったという女性は、ここに来て気持ちが楽になり元に戻ったと報告し、ときおり笑顔も見せた。
夫を食道がんで亡くした女性は、自宅で看取るまでの2年間が夫婦にとって一番穏やかな日々を過ごせたと回想した。体験を本にまとめたという。
2019年1月に息子を肺がんで亡くし、その年の暮れに自身も胆管がんで余命半年と告げられた80代の男性は、詩吟を詠っていて腹から声を出す。余命は越えた。
母を4年前に乳がんで亡くした20代の女性は、ドキュメンタリー映画で知った、o157で4歳の子どもを亡くしたお母さんの言葉、「悲しみは乗り越えられない。悲しみが日常になるだけ」にジーンときたと話した。
卵巣がんになって7年、夫婦で参加した女性は、かつて卵巣がんの友人に「元気がもらえる色」と教えられた赤い小物を探していて、「この間、赤いハンカチを330円で見つけたら、幸せな気持ちになった」と笑いを誘った。
全部で14人。近況や思いを口にして、ほかの人の話に耳を傾ける。ときに真剣に、ときに笑い合いながらの約2時間。表情がどんどん晴れやかになる。
2020年8月1日、東京都東村山市で開かれた「東村山がん哲学外来メディカル・カフェ」である。
がん哲学とは、がんを科学的に、人生を哲学的に学び、がんと共存していくというもので、樋野興夫・順天堂大学名誉教授が2000年ごろに提唱した。2008年に順天堂大学病院で無料のがん哲学外来が生まれて、樋野先生とがん患者・家族らの対話の場となった。
ほどなく「がん哲学外来メディカル・カフェ」として全国へ広がった。立場を越えて集える場である。 その1つが、2014年8月に東村山でもオープンした。第72回の開催となったこの日、主宰する大弥佳寿子さんはこう語った。
「最初から何かを作っておくのではなく、来られた方がその場に注ぎ込むのがカフェです。毎回、ストーリーが違います。これからも思いを交換し合い、寄り添え合えたらいいなと思います」 大弥さんが乳がんになったのは、1999年。遠く離れた中東の異国で見つかった。
英語で「ブレストキャンサーです」
カタールはペルシャ湾に突き出た産油国だ。首都はドーハ。1993年、サッカーワールドカップの最終予選で日本代表が本戦出場を逃した「ドーハの悲劇」の地でもある。
大弥さんは、1999年5月、そのドーハで乳がんを告知された。5歳上の夫の雅昭さんの転勤に伴い、91年生まれの長男潮くん、96年生まれの次男澪くんを連れて4人で暮らし始めてから、わずか1カ月のことであった。
発覚は、ほんの偶然であった。 3歳になった澪くんとお風呂に入っていると、母乳で育てたせいだろうか、おっぱいを恋しがり、右胸に触れた。大弥さんも手で触れて、しこりを感じたのだ。
ほどなく、家族4人で、雅昭さんが予約した病院に行った。最初に女医さんが、少し後に男の部長先生が診察して、細胞診を行った。 電話がかかってきたのは、予約より早いタイミングであった。「来られますか?」。
再び家族4人で行くと、受付の職員たちが申し訳なさそうな顔をしている。診察室に入ると、部長先生が英語で告げた。
潮くんは8歳。しかし、雰囲気から察したようで、「お母さん死んじゃうの?」と聞いてきた。「大丈夫だよ」ととっさに答えた。
大弥さんは半信半疑だった。なぜなら、出国前に日本で受けた健康診断では「異常なし」と太鼓判を押されていたのである。たった1、2カ月で乳がんができるのだろうか……。 雅昭さんも平常心を失っていたのかもしれない。病院を出た車は、見たこともない景色の中を走っていた。
2人の子どもと夫のために生きたい
帰国した大弥さんは、雅昭さんのつてで虎の門病院にかかった。澪くんは埼玉県狭山市の夫の実家に預け、自分は横浜市の親戚の家に身を寄せた。
虎の門病院で改めて検査を受けて、初期の乳がんと確定した。しこりは1センチと小さいが、医師は全摘を勧めた。大弥さんは温存を望んだが、最終的には納得した。ノートにこんなふうに書き付けた。
《2人の子どもと夫のために生きたい。こんなところで死ねない。先生の手術方法を受け入れて、できることをやる》
手術は6月初め。入院前日、澪くんに会いに行った。 「お母さん、明日から入院して、悪いものを取ってもらうからね。いい子でいてね」 ほろっと泣くと、ティシュを持ってきて黙って拭いてくれた。「この子のためにも頑張らなきゃ」。気力が湧き上がった。
手術は成功した。転移もなかったが、念のため、右のリンパ節をすべて切除した。断端(手術で取った切断面)に陽性反応があったため、放射線を25回かけることになった。 最初は入院中に、7月初めに退院してからは通院で。月曜日から金曜日まで、週に5回、放射線を当てた。
この間、澪くんとはほとんど会わないようにした。離れたがらなくなることなどを考えての決断だった。一方、カタールからときどきファクスが届いた。潮くんは、近況報告とともに、こんなことも書いてきた。
《つらいことがいっぱいあるけど、僕は頑張ってます。早くお母さんが元気になって、また4人でカタールで暮らそうね》
夏休みの間に、雅昭さんと潮くんも一度帰国した。経過は順調で、半年に一度の経過観察となった。そして、手術から3か月近く過ぎた1999年8月末、大弥さんと澪くんもカタールへ向かった。
新婚生活はアブダビ
大弥さんは1963年2月、長野県飯田市で生まれた。日本アルプスに囲まれた自然豊かな山あいの街。高校卒業後、神田外語学校に入って上京するまで、野菜や果物を買ったことがなかった。家庭菜園で作ったり親戚が持ってきてくれたりしたのだ。
神田外語では英文タイプや商業英語を学び、語学を生かそうと日本海洋掘削に入社した。油田を掘る企業だ。そこで雅昭さんと出会い、88年4月、25歳で結婚した。雅昭さんはすでにアラブ首長国連邦(UAE)のアブダビに駐在しており、一時帰国して式を挙げた。
新婚生活はアブダビで始まった。海外経験はシンガポールに会社の仲間と遊びに行っただけという大弥さんにとって、アラブ世界は何もかも違う。ただ、現地の婦人会の間で生活ガイド的な冊子が代々伝わるなど、情報をつないでいく文化があった。
「市場に行くと、水揚げされてすぐの魚介類が買えるので、鮮度がよかった。ハムール(ハタ)という魚をよく食べました。魚は素揚げして南蛮風にしたり、味噌などで下味をつけてフレーク状にしたり。戸惑いながらも、工夫をしていました」
帰国して、潮くんが生まれる。再びアブダビ。そしてカタール。そのままUAEのドバイに転勤し、2003年6月に帰国した。 乳がんのことは、なるべく意識の端っこに置くようにしていた。半年に一度の検査をクリアするたびに、「良くなっていくんだ」と希望的に思うようになっていた。
そうして迎えた2006年3月。術後7年、そろそろ“卒業”を意識し始めたころに、虎の門病院で主治医だった医師が開いたクリニックで、再発転移が見つかった。レントゲンを見ながら、医師があわて気味に言った。
「肺に影が映っています。精密検査を受けてきてください」 夕方だった。日比谷公園の近くにあるクリニックを出ると、景色に色がなかった。
再発転移でがんの真正面に立つ
「私にとっては、このときが本当の告知でした。一番衝撃的でした」 虎の門病院で精密検査を受けた結果も、肺転移だった。パラパラッと種をまいたようにがん細胞が散っていて、手術では取り切れない。ホルモン剤と抗がん剤の併用となった。
大弥さんは初めて、インターネットで探して、自分と考えが合いそうな患者会のおしゃべり会に参加してみた。すると、「再発だったら、乳腺外科ではなく、薬のエキスパートである腫瘍内科のほういいんじゃない?」と助言してくれる人がいた。
そこで、セカンドオピニオンを取るため、目黒区の東京共済病院を雅昭さんと訪ねた。医師はこう説明した。
「まずは副作用が少ないホルモン剤から使っていきましょう。薬物耐性ができたら次のホルモン剤に替えていきます。一つ一つの薬を大事に使っていきます。抗がん剤はその先です」 大弥さんとしては最も納得できる治療方針で、転院を決めた。
最初は、リュープリン(一般名リュープロレリン、注射)とノルバデックス(一般名タモキシフェン、錠剤)の併用。効かなくなると、アリミデックス(一般名アナストロゾール、錠剤)。
再発したとき、大弥さんは、バインダー形式の立派なノートを買った。日々の状況、診察の内容、体調の変化、自分の気持ち、子どものことなどを「とにかく書いていこう」と思ったのだ。やがて、子どもたちの手紙も挟んだ。
「バインダーなので、1冊持ち歩かなくてもいい。診察の日には、先生に聞きたいことを書いたページを持っていったり、出先で思いついたら書いたり……気持ちが落ち着きました」
それでも、ふさぎ込み、閉じこもりがちにもなる。周囲には何も明かしておらず、元気なお母さんには会いたくない。ひたすらインターネットで検索しては、マイナスの情報を蓄積させていく。子育てこそきちんとしていたが、うつ的な状態であった。 そんなあるとき、ふと、「これではいけない」と思った。
それをきっかけに、講演会に行ったり、認定NPO法人「キャンサーネットジャパン」の乳がん体験者コーディネーター(BEC)の講座を受けて、BECに認定されたり。再発転移しても楽しそうに暮らしている人に会いたい、という気持ちも高まった。 「そんな人の生き方に触れることで、力を得ました」
たまたま入ったクリーニング店の奥さんが、店に乳がんの啓発ポスターを貼っていた。意気投合した。奥さんは、自分の経験を少しでも生かそうとしていた。 がんからできるだけ離れたい。そう思っていたはずの大弥さんは、再発転移をきっかけに、がんの真正面に立ったのである。
治療とは違う生き方に突き動かされた
そんな中で、2013年の秋ごろだったか、ある勉強会で会ったのが、「がん哲学」の樋野興夫先生である。柔らかい物腰で、講演が始まっても、一向に治療のことが出てこない。それどころか、チャウチャウ犬の写真を見せたりする。話の脈絡もない。
何なんだろう、これ? 首をひねっていたところに、あるフレーズが響いてきた。 「誰にでも役割使命があるんだよ。どんな人でもどんな境遇にあっても、寝たきりになっても役割使命がある」
ハッと思った。ずっと治療にばかり目を向けてきたけれど、そういうところに身を置くことも大事ではないか。 「治療とは違う生き方に突き動かされました。仕事はしていない。子どもたちは手離れしつつある。そんな私にも価値があって役割使命があるなら、それを見つけたい」
それから大弥さんは、樋野先生の著書を読み、樋野先生が参加するカフェに行くようになった。
「人生いばらの道、にもかかわらず宴会だよ」、「目下の急務は忍耐あるのみ」、「八方塞がりでも、天は開いている」、「大切なことは少ない。ほとんどのことは、ほっとけ、気にするな」。 「心の井戸の水を汲み上げるというのでしょうか。その時々で、響いてくる言葉が違いました」
著書『がん哲学』の中にある、がんをたくましいものと肯定的に捉えたくだりには目を見開かされた。消したい相手のはずなのに、「がんも生きるために頑張っているんだな」と、憎めなくなってきたのだ。
2014年8月、大弥さんは、樋野先生の勧めで、地元の東京・東村山にカフェを開いた。お茶の水や東久留米などの“先輩カフェ”のスタッフたち、先ほど触れたクリーニング店の奥さん、雅昭さん、社会人と大学生に成長した2人の息子らの力を借りてのオープンである。
以来6年。毎回15~20人ぐらいが集まり、6、7人ずつに分かれてテーブルを囲んだ。「サザエさんみたいにアットホームなカフェですね」と受け止めてくれた人もいた。大弥さんは、ほかのカフェにも積極的に出かけて、吸収したものを東村山で返す。
2019年5月、大弥さんの治療は、ホルモン剤から抗がん剤へ移った。現在は、パクリタキセルとアバスチンの併用だ。髪はウィッグになったが、新型コロナウイルスの影響が出る前は、スポーツクラブにも通い、音楽に合わせて段を上り下りする「ステップ」という運動に励んだ。サウナにも入った。ジムの仲間に伝えたこともある。
「がんに負けないというより、自分の弱さに負けたくないという思いがあります。私は、がん患者である前に一人の人間なんです。原爆、戦争、大震災、豪雨、コロナ……望まない形で、不条理に命を亡くした方はたくさんいます。完治しないのに治療して何の意味があるのか、苦しみから抜け出したい、と思ったこともありました。でも、悲しみがあるからこそ、心が豊かになる。今は、生きているというより、生かされていると思っています」
2020年の春先の夜、自宅マンションの4階のベランダから、雲の合間に覗く満月に近い月をひとり眺めた。出会った人々の顔が浮かんできた。月の光が力を与えてくれるようであった。いつの間にか、じんわりと内側から、温かい気持ちになっていた。