旧知の帯津良一先生に会いに行く
2016年5月に東京医科歯科大病院で、病名、手術が確定したあと、まず報告、相談に行ったのは、旧知の帯津良一先生のところだった。 帯津先生は、若いころは消化器外科(食道がん)が専門のちゃきちゃきの外科医だったが、手術は成功しても患者は亡くなる、というような経験から西洋医学の限界を感じ取り、西洋医学に加え、中国医学(漢方)や代替療法も取り入れた統合医療を実践しているお医者さんだ。多くの著書がある。 私はかつて取材でお会いしてその思想や人柄にひかれ、以来時々ビールをご一緒する間柄だった。夏目漱石の愛読者という共通点も親しみを増していた。 先生はじっくり話を聞いたあと、ひとつひとつの治療を期待してやっていくこと、免疫力を高めるには、喜ぶ、感動する、ときめきを感じること、手術に焦点をあわせ、体力をつけること、などを話してくれた。免疫力を高める漢方薬やサプリも処方してもらった。 敬愛する先生の温顔に接し、厳しい現状を訴えることができて、がん判明以来の重苦しい気分がやわらぎ、わずかに晴れ間が見えた気がした。 先生から、ステージ4のがんで今も元気な人が実践した食事の本を借りた。妻はそれを熟読、以降、玄米食、魚、野菜中心の料理にした。1、2年はきちんと守った。今はかなり緩んだが。 先生も、肉は控えめで旧来の日本の粗食がいい、と勧めた。その一方で、むやみな厳格主義には首を傾げ、体力の保持も説き、わたしは共鳴して聞いた。先生のこうしたアドバイスと、わたしのがんと患部も病態も似ているがんを克服した、患者の会のムーランさんの明るい経験談には、本当に元気づけられた。
手術までひと月半、その間、10日ほど抗がん剤治療の入院をする。その前後は忙しい日々だった。シニア記者として在籍していた朝日新聞社の仕事の調整はもちろん、大学の講義の手当もしなければならない。講義はまだ前期の半分ほどしか終えていない。ジャーナリズムが講義のテーマだったので、親しい同僚にシラバス(学生に示す講義概要)を渡し、数回代講してもらい、残りは大学の専任の先生にお願いした。 このころ、あるところで私より5、6歳若い会社の同僚にばったり出会った。眼帯をしている。聞くと、がんだという。片目が見えにくくなり眼科に行ったが、目の病気ではないといわれ、いろいろ調べると、脳に腫瘍ができそれが視神経に影響したという。 「リンパに転移したら危ないです。もう綱渡りですよ」といつもの甲高い声で話す。実はわたしも、とこちらの経過や近いうちの手術を告げ、「お互い、がんばろう」と握手して別れた。
神宮球場でヤクルト-阪神戦
このころになると、夜中、何度か鼻血が出た。鼻血は軽いものでも口回りや服が汚れ、不快で屈辱的なものだが、腫瘍からの出血とわかっているだけに、口元をタオルで覆い、赤く染まったパジャマやシーツを見るのはつらかった。このときばかりは「もうダメなんじゃないか」と落ち込んだ。
鏡から 生臭坊主 照れ笑い
夜帰宅した息子は「あんまり変わってねえな」。これには少し傷ついた。
妻、娘、息子あてのメッセージ
それまで入院といえば、大腸ポリープ切除の2泊3日くらい。今回は抗がん剤の点滴のため10日間の入院だ。このあとに続く2年間で7回の入院の最初だった。 抗がん剤はシスプラチン、ドセタキセル、5-FUという3種。このうちシスプラチンはとくに副作用が強く、食欲不振、吐き気、下痢、抜け毛、手足のしびれ、腎機能低下などがみられるという。入院3日目から抗がん剤の点滴が始まった。トイレに行くにも就寝中も点滴台につながれ、実にうっとうしい。いよいよ病人になった自覚が生じた。
じゃまくさい 点滴台が 命づな
食事は半分残した。むかむかする。下痢気味。だるい。ただ、覚悟したほどではなかった。嘔吐も発熱もない。副作用は人によるという。制吐剤なども進歩した。わたしは比較的軽いほうだったようだ。
深夜、トイレで小用中、また鼻血が出た。あわてて手で鼻を抑えるが、血は口、首筋に流れ、下着が汚れる。点滴台がわきにあるため、機敏に動けない。最悪の気分だ。病室のベッドにもどっても、なかなか寝付かれなかった。
CT検査によると、抗がん剤でがんはやや小さくなっただけというが、手術はむろん、しなければならない。いったん退院して自宅で静養し、手術に備える。簡単な手術ではないが、手術そのもので命を落とした例はないというから、アメリカにいる娘は呼び戻さないことにした。 ただ、万一を考え、妻、娘、息子あてにそれぞれ簡単なメッセージを残した。パソコンで書くと、内容はシリアスでも、なんだかビジネスレターみたいで、気が楽になった。息子にだけプリントアウトした3枚のメッセージの置き場所を知らせた。
女性看護師のやさしい声
前頭洞がんのような頭蓋底腫瘍の手術は、説明を聞くだけで恐ろしい。まず、頭を耳から頭頂部さらに耳にかけて切り、皮をはぐ。脳を押さえて、がんを取り除く。がんに侵された前頭骨を削る。がんはぎりぎり左眼球までは達していなさそうなので、眼球摘出はしないですむだろう。 右太ももから組織(皮膚や筋肉)を切除し、鼻と脳の間にできた空白部に埋める。皮を戻し縫合する。頭頸外科、脳神経科、形成外科の三科合同の手術で、手術時間は15時間を超えるだろう。眼球摘出の説明には心底、恐怖を感じた。
6月29日、手術の日。朝8時半すぎ、病室からストレッチャーで運ばれる。廊下の蛍光灯の白い天井が、目の前で流れていく。大部屋の手術室はやけに明るく、白っぽい手術着の医師や看護師たちが待っている。 マスクをしているから表情はわからないが、声でなじみの先生たちとわかる。手術室担当の女性看護師が、やさしい声で声をかけてくれ、安心感を抱いた。 すぐに意識がなくなった。妻によると翌朝の朝4時半ころ、手術を終えた主治医の朝蔭孝宏先生が、手術室の近くの小部屋で待機していた妻に、「無事、がんを取り切りました」と報告してくれた。実に20時間の手術だった。妻と息子は病院近くのホテルに部屋をとっていたが、ほとんど使わなかったという。
渡辺謙さんになるはずが……
ICU(集中治療室)に数日入り、病室に戻った。幸い、眼球は保存され、髄膜炎などの合併症はなかった。がんは脳の硬膜(一番外側の膜)を浸潤していたが、そこでとどまり、脳本体は無事だった。 半覚半醒の状態が続いた。目は見えないが耳は聞こえる。あるとき、近くで男女の話し声が聞こえた。小声で楽しそうに、ときに小さな笑いもまじる。非番の若い医師と看護師だろうか。 いいな、向こうは日常を生きているが、こっちは非日常の真っただ中だ、早く向こう側に行きたい――。このときはまだ朦朧としており、こんなに明確に意識したわけではないが、あとで振り返るとこのような感じだった。
左眼球のすぐ近くまで処置をしたため、左目の周りは大きく腫れて、よく見えない。KO寸前のボクサーといったところだろう。手術前、形成外科の先生から、おでこの骨を削るから、容貌が少し変わります、と言われた。頭には毛がほとんどない。後に、外の会合に出られようになると、よくこんなジョークを披露した。
手術で顔が変わると言われたので、先生に「じゃあ、渡辺謙でお願いします」と頼んだ。術後、鏡を見て思わず叫んだ。「なんだ、渡辺謙じゃなくて志村けんじゃないか」。
この自虐ネタはかなり受けたが、志村けんさんが今春、コロナで亡くなってからは、使いにくくなってしまった。
硬膜が脳本体への浸潤を食い止めた
――わたしの手術は、先生(頭頸部外科)のほか形成外科、脳神経外科の先生も加わり、20時間の大手術でした。頭頸部がん(前頭洞がんを含む)で10時間以上もかかる集学的な大手術(各科の医師が協力して手術に参加する)を、先生は年に何回くらい手がけますか。 「こんな大手術は、年10回から12回くらいでしょうか」
――前頭洞がんは極めてまれながんと聞きました。全国で年間、何人くらいが罹患しますか。 「2016年の統計だと頭頸部がん1万1716例のうち、前頭洞がんは7例に過ぎません。まさに希少がん中の希少がんです。しかし患者さんは少数でも、存在するがんです。集学的な治療ができる施設は限られているので、そのうち半数くらいはうち(東京医科歯科大病院)へ来るようです」
――わたしのがんの大きさ、症状はいかほどで、ステージ4の根拠は。 「大きさは直径で3センチくらいで、さほど大きくないが、頭蓋内に進展して脳の硬膜(脳を覆う一番外側の膜)に浸潤がありました。硬膜が脳本体への浸潤を食い止めてくれた形です。左目の眼球もぎりぎりのところまで侵されてましたが、かろうじて外側にとどまっていました。鼻と脳を隔てる骨も破壊されていました。このがんは症例が少なくステージ判定の明確なガイドラインはありませんが、以上の所見から、4相当としました。ただ4といっても軽重があり、牧村さんのは軽いほうの4でした」
――もし手術がひと月遅れていたら、左目の眼球摘出の可能性はありましたか。 「ひと月ではわからないが、3、4か月後だと眼球を摘出しなければならなかったかもしれません」
普通の耳鼻科で気づくのは難しい
――いつ頃からがん化したのでしょうか。3年、5年、10年単位だといかがですか。また、副鼻腔炎(蓄膿症)の既往症がありますが、引き金になりますか。 「正確にはわかりませんが、3年程度前からでしょうか。原因はわかりませんが、蓄膿症は関係ないでしょう」
――近所の耳鼻科では発見できませんでした。無理ですか。また自覚症状はありますか。 「鼻の裏の奥にできる腫瘍で、ファイバースコープを入れてもよく見えないところです。しかも普通の耳鼻科のお医者さんはこの病気を診た経験はないでしょうから、気づくのは難しいでしょう。自覚症状としては、鼻血、鼻づまり、おでこがはれてくる、などです」
――術後4年経過し、いまのところ再発、転移はありません。 「進行がんだったので、再発は手術後1、2年が圧倒的に多い。4年無事なら、まず逃げ切れたとみていい。ただ早期がんだと、5年以後でも突然再発することもあります。転移はリンパが多いようです」
――先生は手術の説明の時に「(がんを取り切れる)確信がある」と自信をもって話され、この先生にお任せしよう、と強く思いました。主治医の確信は患者に希望を与えてくれます。 「このがんは早期の発見が難しく、手術時に手遅れ状態のケースもあり、私が手掛けたうちでうまくいったのは、正直言って半数くらいでしょうか。牧村さんのは、ぎりぎりのところでしたが、経験上、取り切れる自信がありました」
牧村 健一郎
1951年、神奈川県生まれ。家は松竹大船撮影所の目の前で、1歳のころ、赤ん坊役で杉村春子らと“共演”した。早稲田大学卒業後、朝日新聞社入社、学芸部などに在籍。著書に『新聞記者 夏目漱石』(平凡社新書)、『旅する漱石先生』(小学館)、『漱石と鉄道』(朝日選書)、『評伝 獅子文六 二つの昭和』(ちくま文庫)などがある。退職後はチェロを習い、現在はバッハの無伴奏チェロ組曲第一番プレリュードを特訓中。