知人がいきなり「本当にマキムラさん?」
10キロほど体重が落ち、体力低下は著しかったが、2017年の年明けからは少しずつ、社会生活に復帰し始めた。予定されていた漱石の講演もすませ、春には京都に旅した。ただ、6月に観た長時間のオペラ「ジークフリート」(新国立劇場)は体調不良で中座した。 数年ぶりに会った知人には、いきなり「本当にマキムラさん?」といぶかしがられた。手術によって目の周りなど面相が少し変わったからだった。 6月下旬、手術1年のMRI検査があった。がんの再発・転移は、がん患者にとって、もっとも恐ろしい。がんは治る病気といわれる最近では、がん告知の衝撃は以前ほどではないが、再発・転移の知らせは重い。 「がんは必ず再発するものだと覚悟したほうがいい」という新聞に載った患者の言葉は、赤い線をひいて読んだ。再発だと、再手術や放射線照射は難しく、抗がん剤が頼りになるケースが多いという。 どのがんでも、再発・転移は術後1、2年が圧倒的に多いそうだ。とくに前頭洞がんはその傾向が強いという。祈るような気持ちで検査を受け、数日後、結果を聞きに病院へ行った。
おでこの凸凹を治すために骨を人工骨を入れる
次は、手術で切除した前頭骨に人工の骨を入れる再建手術だ。前頭骨がなくなり鼻と脳の仕切りがなくなったので、手術時に右太ももから皮膚、皮下脂肪、筋肉(組織)を取り出して、埋め込んだ。 そこに新たに人工骨(素材はハイドロキシアパタイトというリン酸カルシウムの一種。骨や歯の主要な構成物で生体組織になじみやすいとされる)を入れるのだ。 前頭骨がないから、おでこあたりがへこんで凸凹している。それを治すのだが、万一、何かに直撃されたら、骨がないと脳に重大なダメージを与えるから、その防止の意味もあるという。 もっとも私の場合、顔のほぼ中央だから直撃のリスクは小さいという。手術前は、日常的にヘッドギアが必要になるかもしれないといわれたが、その必要はなさそうだった。 人工骨はダイヤモンド型で長径5センチ、厚さ5ミリほど。欠損部に合わせたオーダーメイドだ。手術時間は3時間、全身麻酔するが、がん摘出手術に比べれば段違いの安全な手術で、順調なら10日の入院ですむらしい。 人工骨が生体にうまく適応できず、取り出すようなケースは5%ほどの低い確率という。だから9月5日、御茶ノ水駅近くの東京医科歯科大病院に安心して入院した。5度目の入院である。 手術は無事終わった。だが、その後の経過は芳しくなかった。微熱が続き、CRP(炎症反応)や白血球の数値が思うように下がらない。おでこの凸凹はほぼ消えたが、目の周りが腫れて、涙目がひどく、ときにぴくぴくする。だるい。回診に来る形成外科の先生は、「焦らず経過をみましょう」。退院予定の10日がたっても状況は好転しない。
満員電車がなつかしい
今回は4人部屋だった。そのなかにハタ迷惑な爺さんがいた。声が太く、カーテン越しでもよく聞こえる。巡回に来る看護師を呼び止めて、やたら長話をしかける。小声ではあったが、禁じられているケータイ電話を病室で使う。こちらの心身の状態がよくなかったせいもあり、イライラが募った。 押しつけがましいしゃべり方が、以前職場で一緒だったガラの悪い上司に似ていて、さらに不愉快になった。今思えば、当人も老齢になって入院し、心細かったのだろうが、当時は思いやる余裕はなかった。
ある朝、顔見知りになった病室掃除のおばさんと話をした。今はかすんで見えないが、冬の快晴の日には、この病室からビルの谷間に雪の富士山が見えるという。へえ、じゃあまた冬に入院するかな、と軽口をたたいた。むろん軽いジョークのつもりだった。
ころんだころんだコロンブス
3、4日ごとに血液検査をする。半日後に結果がわかる。毎回、期待と不安が交錯する。よく、検査の結果に一喜一憂するな、という。その通りだ。しかし、患者に気にするなというのは無理だ。 私はよく思った。一喜一憂ではなく百喜一憂しよう。悪かったら落胆するのは仕方ないとして、少しでも良かったら大喜びしよう、ガッツポーズをしよう、単純な奴と笑われてもいいや、と。気分を過度に落ち込ませないためには、いろんな工夫、自己暗示が必要だ。 家族のほか友人がときどき、見舞いに来てくれた。友人とは言葉遊びをしてなごんだ。 「こまったこまったこまどり姉妹」「しまったしまった島倉千代子」なんて語呂合わせで笑わせてくれる。こちらも「いかったいかったイカンガ―(昔のマラソン選手)」「ころんだころんだコロンブス」と対抗、一時、うっとうしさを散じた。声をだして笑えるのは、ありがたかった。 ようやく数値が安定し、10月1日、退院した。最もシリアスながん手術の入院ではなく、形成外科手術の入院のほうが精神的にきつかった。がんの場合は覚悟があったが、こちらは多少気がゆるんでいたからだろうか。
せっかく入れた人工骨を取り出す
退院して半月ほどすると、左目の下、鼻の脇あたりにふくらみが生じた。しばらくすると右目の下にも。おかしい。すぐに病院で先生に診てもらう。切開してなかの膿を取り出す。これは痛かった。検査に出す。菌は見つからない。 切開するとふくらみはしぼむが、しばらくすると再び膨れる。朝、鏡を見るのが苦痛だった。また切開する。洗浄する。抗生剤を飲む。変わらない。先生は首をかしげる。もし膿が内部にこもり脳に細菌が感染したら、もっと大変だった。 一進一退が3か月近く続いた。1日おきに御茶ノ水まで通院する。人工骨に細菌が付着し、炎症を起こし、膿が下部に下りて鼻のわきに溜まった、としか考えらない。発熱もなく膨らみもそう大きくないので、抗生剤でなんとか退治したいと、先生も私も頑張ったが、もう限界だった。 ついに、年明け早々に、人工骨を取り出す再手術をすることに決めた。最初の手術前に聞かされた人工骨が適応しない5%に当たってしまったのだ。原因は、前年の2か月間の放射線照射によって、生体組織の血流が悪化し、細菌がついた可能性が高いという。放射線の副作用か。 幸い、がんのほうはその後も順調だった。心配は人工骨の手術に移った。年末に出した年賀状には、「めでたさも 中くらいなり おらが春」という一茶の句を添えた。 翌2018年1月8日入院。また別荘生活である。手術のために事前に24時間心電図を付けると、深夜、脈が異常に遅くなり、30を切る時があるという。そのため、手術前に、股の付け根から臨時のペースメーカーを入れ、心臓に刺激を与える処置が必要になった。
手術は終わった。膿は解決したが、またおでこは凹んだ。元の木阿弥、くたびれもうけ、である。病室の窓からは、白い小さな富士が見えた。
牧村 健一郎
1951年、神奈川県生まれ。家は松竹大船撮影所の目の前で、1歳のころ、赤ん坊役で杉村春子らと“共演”した。早稲田大学卒業後、朝日新聞社入社、学芸部などに在籍。著書に『新聞記者 夏目漱石』(平凡社新書)、『旅する漱石先生』(小学館)、『漱石と鉄道』(朝日選書)、『評伝 獅子文六 二つの昭和』(ちくま文庫)などがある。退職後はチェロを習い、現在はバッハの無伴奏チェロ組曲第一番プレリュードを特訓中。