日記は、私にとって一種のネタ帳のようなものでもあり、エッセイの題材を考えるときなど、たまに見返しています。そのなかで今回は、「前向きな人にモヤモヤした話」に目がとまりました。
きっと、同じように感じているがん患者さんはたくさんいるのではと思い、今回の題材にしてみました。
素直に「すごい」と思えない
このとき何にモヤモヤしたのかというと「前向きに生きるがん患者のインタビュー記事」です。がん啓発か何かの特集として、連日、いろいろな人のインタビューが掲載されていたのでした。
どんな人たちでどんな内容だったかは忘れてしまったのだけれど、日記を見る限り、だいぶ飛び抜けているがん経験者たちの記事だったようです。逆境に負けずにどんどん前進していく姿だったり、治療後に復帰しようと努力する復活劇だったり。
「すごいね!」と、周りにいた人は称賛の声をあげていました。 たしかにすごいし、注目されるのも分かる。こういったストーリーで、勇気づけられる人もたくさんいるはず。
だけどなぜか、私の心にはモヤモヤとしたものが漂っていました。素直に「すごい」と思えずに、周りに合わせて「そうだね」と渇いた返事をするくらい。
おそらくそのときの私は、「自分はそうできていない」と焦りを感じていたのだと思います。その人たちと比較して、「がんばり切れていない自分」を目の当たりにするようで、何やらモヤモヤが立ち込めるのでした。「人のがんばりを素直に喜べない自分」も卑屈な気がして、さらにモヤモヤするという(しかもそのモヤモヤを人には言えない)。
とはいえ、がんばる人にいつもモヤモヤを感じるのではなく「すごい」とだけ思うこともあります。多分これは、そのときの自分の心の在りどころによるのでしょう。
以前のがんココで、「自分がどんなにがんばっても持てないものを持っている人に対して、イラ立ちを覚えるのは当たり前の人間の感情だ」のようなことを書きましたが、大小さまざまな物事のなかに、その感情は存在するようです。(参照:「木口マリの『がんのココロ』第22回 私はもう、子供を産めないけれど」https://www.gsclub.jp/tips/10166)
そういう気持ちがある、という事実だけを受け止める
それからいろいろと考えた末、その感情は「間違ったものではない」という結論に達しました。 だれでも、どんなに前向きに見える人でも、焦りやモヤモヤを感じるときはあるはず。
しかしだれにでも起こることで「間違ったものではない」とはいえ、やっぱりイヤな気持ちにはなるし、落ち込むこともあります。特にがんで気持ちに揺れがあるときなど、その感情を「負」ととらえて「自分は弱い」と思ってしまうこともあるかもしれません。
でもそれは、「私たちが人間であるから」というだけのこと。たまたまそんな気持ちになるときがあるだけです。
そのとき大切なのは、モヤモヤを「負の感情」とか「ダメな自分」と決めつけることはせずに、そのまま認識することだと思います。客観的に「モヤモヤしている自分がいるなぁ」くらいの感覚で。まずは、そういう気持ちがある、という事実だけを受け止めることが大事です。
卑屈なときがあったっていいし、世間やみんなが良いと言うものを「何か気に入らない」と感じるときがあったっていい。
その気持ちを受け止めたうえで、なぜそう感じるのか、その気持ちを解消するにはどうしたらいいのかを、ゆっくり探っていけばいいと思うのです。
……と、自分で言いながら、今でもそうできずに悶々とすることはたびたびあります。それでも、「間違った感情じゃない」と分かっているだけでだいぶ心持ちは違うものです。
どの感情も「在っていい」
ところで、「前向きながん患者のインタビュー記事にモヤモヤした」と書きましたが、前向きながんばりや、それを発信することを否定しているのではありません。
がんばっている人はそのままでいてほしいし、がん経験を通して何かに打ち込めるのなら、ぜひ続けてほしいと思います。それはそれで、”善きもの”としてあり続けてほしいです。
しかし同時に、そのときの心の在りようによっては”善きもの”を受け入れ難く感じてしまうことがあるのも事実。
どちらも「在ってはいけないもの」ではなくて、誰かが強くて誰かが弱いのでもありません。いずれも、どの感情も「在っていい」のだと思います。
いろいろな感情があって、それが絡み合っているのが人間です。変なところで飛び出たり、うまく対処できなかったりすることもありますが、落ち着いて眺めてみれば紐解くこともできるはず。
私もまずは自分の「ダメ」を捨ててみて、自分のことを受け入れつつ、そこからどんな新しい対処法や感情を得られるかを試していきたいと思います。