【後編】家族、仲間、ブロ友に支えられて
ブログを始める
裕人さんは11月初めに退院し、在宅に切り替えた。 潤子さんは、介護申請、障害者手帳の申請、訪問医療の態勢づくり、家の改修、介護用品のレンタルなど、さまざまなことを整えていった。 12月7日は結婚記念日。それも、銀婚式であった。2人は高校の同級生。この日は夫婦で思い出の地を訪ねた。 そして、この晩から、潤子さんはブログを始めた。第1回で、「おじいちゃんおばあちゃんになっても一緒に結婚記念日を迎える」と誓っている。 シンプルな記述から、現実を受け止めきれない揺れる気持ちと、「絶対にあきらめない」という強い意志が伝わってくる。
夫婦で仕事に復帰
2回目以降の抗がん剤では、大きな副作用はなかった。髪の毛が薄くなったり、手がしびれたり、足の裏が痛くなったり、という程度で済んだ。 年が明けた2017年1月、裕人さんは、職場に復帰した。社長の理解があり、できる範囲で通いはじめた。役職も外れていない。 潤子さんも2月から、仕事に復帰した。ただ、夜勤やリーダーの仕事は控えた。 一家の収入は減り、治療などで支出は増えた。家計は自転車操業だ。本当のステージを告げる
そのころ、潤子さんは、裕人さんに告知するかどうかで悩んでいた。 ステージⅢとⅣでは、治療の話がずれてくる。裕人さんは「調べる人」であり、そのずれに気づく可能性も高い。何かと本音で話し合える看護師に聞いてみると、告知に賛成であった。ほかからも、同様のアドバイスをもらった。 2月半ば、潤子さんは意を決して、本当のステージを告げた。 冷静なのは裕人さんで、泣いたのが潤子さんだった。 「やっぱり、そうだったんだ。息子が20歳になるくらいまでと覚悟していた」 と裕人さん。潤子さんは「冗談じゃない! これからも一緒に生き抜く!」とブログに書いた。 この日が、「夫婦の新たながんとのスタート」だという。 裕人さんも同じ思いだったのだろうか。 その後、「自分ノート」という厚いノートを買って、状態、血圧、体重、食べたものなどを本格的に記録しはじめた。ただし、潤子さんは中身を見ないようにしている。小林麻央さんに涙を流す
腫瘍マーカーの上下はあるが、腹膜播種は比較的安定している。だが、腸閉塞や消化管の出血などで、裕人さんは入退院を繰り返す。 入院中、潤子さんは毎日顔を出す。「えらいね」と周囲にほめられたこともあるが、本心は少し違う。 「私の気持ちがおさまらないんです。このルーティーンが崩れたら、悪いことが起きるような気がして」 小林麻央さんが亡くなったときも入院中で、一緒にテレビを見ていた。裕人さんは、何も言わず、涙を流していた。 裕人さんには、痛みもけっこうある。食事も十分に取れない。点滴で栄養を補給することもあり、70キロ以上あった体重が55キロぐらいに減った。 毎朝、潤子さんが作るにんじんジュースを飲む。食事を作っても、あまり食べられないだけでなく、抗がん剤の副作用で味覚障害もあり、「おいしい」と言ってもらえない。それが、潤子さんにはストレスでもある。 また、疲れていたり体が痛かったりしても、以前の裕人さんと違い、気を使ってもらえない。そんなときは少し悲しくなる。「愚痴はブログに吐き出してくださいね」

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このお話しの続き
――もう一度、取材してもらえませんか? 今年6月、横浜市の鈴木潤子さんからメールが届きました。夫の裕人(ゆうじん)さんは、12月に旅立ちましたが、潤子さんは今もブログを続け、いずれ裕人さんに会う日が来たら「おっ、がんばって生きてきたな」とほめられる生き方をしたいと話してくださいました。「輝きを離さないで ~大腸がんの夫と、東京五輪は一緒に見られなかったけれど~」はこちらよりご覧ください。