いきなり肺がんのステージⅣと診断されたら、「頭が真っ白になる」のが普通かもしれない。しかし、小林豊茂さんの心に浮かんだのは、こんなフレーズであった。
「これで治せて生徒の前に立てたらかっこいいな。『やったぞ、どうだ!』と」
小林さんは、東京都の豊島区立明豊中学校の校長先生である。
明るさを失わず、市民農園で汗をかき、防災教育で被災地へも行く。入院中には、親しい知人たちに、発見や笑いがあふれる「入院報告」メールを送る。
独特の闘病スタイルは、読むだけで元気になれます。たっぷりとお伝えします。(文:中村智志)
前編 「やったぞ、どうだ!」
中編 「ドカンと抗がん剤、どんと来い、ですね」
後編 「誰もが持っている命のタイマー」
前編 「やったぞ、どうだ!」
「先生、それはただ事ではありません!」
小林豊茂先生。
穏やかな語り口が印象的だ。
2016年7月19日、いつものように出勤した小林豊茂先生に、朝一番でレントゲン技師から電話がかかってきた。
「健康診断の担当医師の了承を得て電話をしました。レントゲンの結果、胸に異常があるので、早めに精密検査を受けてください」
先生は、三連休前の7月15日に豊島区の健康診断を受けていた。心臓の異常かな、と思ったが、養護教諭に事情を話すと、あわてた様子だった。
「先生、それはただ事ではありません!」
レントゲン技師を訪ねて健康診断のデータを受け取り、その足で、自宅のある埼玉県所沢市のかかりつけのクリニックに回った。
その場で撮ったCTの画像を見ながら、男性の医師は言った。
「いやあ、あまりよくないどころか、本当によろしからぬ」
医師は、具体的な病名は口にしなかった。しかし、画像の左肺の下部に白っぽい塊が見えた。大きさは2センチぐらい。
小林先生の脳裏には「がん」の2文字が浮かんでいた。
社会科の教員として
小林先生は1961(昭和36)年6月、豊島区で生まれた。幼いころから楽天家で、人の評価を気にしないタイプだったという。小中高と吹奏楽のクラブに所属し、トロンボーンやチューバ、ユーフォニウムを演奏していた。創価高校ではプロ野球・日本ハムの栗山英樹監督と同級生で、ファーストネームで呼び合う仲だった。 1984年、東京都で中学校の社会科の教員となった。若いころには、新聞を教材にした授業(NIE)に積極的に取り組んだ。都の教育委員会を経て校長になってからは、防災教育やがん教育にも力を入れていた。 健康診断はこまめに受けている。たばこは吸わない。体調はいいし、食事もおいしい。 それだけに、「肺がん」になるとは思ってもいなかったという。泣いた看護師
肺がんの可能性がわかった1週間後の7月26日、小林先生は、東京都板橋区の東京都健康長寿医療センターを受診した。かつて母や義母がお世話になったことがある病院で、好印象を持っていたからだ。 1カ月後。夫人とともに、さまざまな検査を終えた結果を聞きに行った。呼吸器内科の医師の診断は明確だった。 「肺腺がんです。ステージⅣです」 がんは、右肺の真ん中と鎖骨近くにそれぞれ一つ、左肺の下部に一つ、あった。 医師は、治療方針やセカンドオピニオンも取れることを説明した。だが、小林先生は迷わなかった。冷静な口調で語った。 「縁があってこの病院に来て、先生に出会ったのです。私は、先生に賭けています。先生が必死にやってくださる治療を受けて、自分で生きようとするから、それを全面的に応援してください」 ふと見ると、担当した看護師が泣いている。 小林先生は「よほど病状が重いのか」と感じた。元巨人軍投手からもらったエネルギー
涙の真相は違った。 診察後に看護師がついてきて、こう言ったのだ。 「泣いてすみません。小林さんのスタンスにとても感動しました。いつもは慎重に患者さんと話す先生も、『よし、ついてこい』みたいな感じになりました」 夫人は、喫煙者の父を肺がんで亡くしていた。「自分はそういう運命なのかなあ」と宿命を感じたという。社会人から高校生までの3人の子どもは、状況を受け入れてくれた。 先生自身は、「終わりだ」と落ち込むことは全くなかった。 代わりに、ある元プロ野球選手の姿を思い浮かべた。 元巨人軍投手の横山忠夫さん。1970年代にプレーし、引退後は池袋でうどん屋「立山」を営んでいた。大腸がんを患い、その後は肝がんになり、2人の子どもではなく妻から生体肝移植を受けて立ち上がっていた。今も「立山」を開いている。 小林先生は、がん教育で、この横山さんに語り部になってもらっていたのだ。 「がんの仕組みを知っても、がんにかかります。私は、生徒たちに、『がんになってもこういう生き方ができるんだ』と感じ取ってほしいと考えました。心に残れば、いざというときに、知恵が湧きます。何のために生きるかという目的や価値観がないと、知識を生かせないのです」
活動的な小林先生。
取材中にも連絡がたくさん入ってきた。
実は横山さんの話は、小林先生の心にも響いていた。エネルギーをもらっていたのだ。それが、がんに立ち向かう勇気につながった。
「私の教育信念は、『心を感じ、心を読み、心で動ける生徒』を育てること。今度は俺が、横山さんに代わって、がん教育をしていく使命を与えられたんだ」
そんなパワーも湧き起こっていた。