体の異変を感じたとき、様子を見る人は多い。日常生活に追われて先延ばしにしてしまう。大きな病気であってほしくない、と思いたい深層心理もある。そんなとき、同居している家族や友人などのアドバイスがあれば、受診するかもしれない。
福島県南相馬市で外科医の尾崎章彦さんが見たのは、その正反対の光景だ。2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発の事故をきっかけに高齢者の孤立が進み、がんの受診が遅れているというのだ。話を聞くと、南相馬地方だけの問題でないことが浮かんできた。
(文・中村智志)
胸のしこりを3年以上も放置
東京電力福島第一原子力発電所から約23キロ。福島県南相馬市にある南相馬市立総合病院の外科医・尾崎章彦さん(32)は、診療を続けるうちにある現象に気づいた。 「東日本大震災と福島第一原発の事故を境に、地域の社会構造が急激に変化して、がん患者の受診が遅れているのではないだろうか」 たとえば、こんなケースがあった。 2014年7月、59歳のひとり暮らしの女性が、右胸のしこりと痛みを訴えて、南相馬市立総合病院を受診した。症状を自覚したのは、2011年4月。大震災の翌月である。受診までに、実に3年3カ月が経っていた。 検査の結果は、ステージ3Bの進行乳がん。手術、抗がん剤、ホルモン療法を組み合わせた治療で事なきを得たが、初回受診の遅れは、見過ごせない。 この年10月に南相馬市立総合病院に赴任した尾崎医師は、この女性のケースを知り、「なぜ3年以上も放っておいたのか」が気になった。 女性に詳しく聞くと、症状が現れてから1年5カ月が経過した時点で、かかりつけ医に相談したが、診断がつかなかった。その後もかかりつけ医には複数回受診したが、胸の症状については相談しなかった。 一方で、被ばくを恐れる娘家族や友人が相次いで避難したため、身近に相談できる人がいなかった。つまり、孤立していたのである。 乳がんをメインで診ている尾崎医師は、ほかにも受診が遅れる乳がん患者が目立つことに気づいた。もしかしたら、孤立と受診の遅れには、関連があるのではないか。 福島県の相双地区。尾崎医師作成の報告書より子どもと同居していない人ほど受診が遅れる
尾崎医師は、外科部長で乳がんが専門の大平広道医師に相談して、調査を始めた。 対象は、2005年~2016年に南相馬市立総合病院か市内の渡辺病院を受診した、福島県相双地区(福島県沿岸部=浜通り地方=の北部)の乳がん患者219人。 うち122人は震災前に初めて受診した人で、97人が震災後に初めて受診した人だった。症状の自覚から受診までの遅れが、①3カ月以上、②12カ月以上、となった患者の割合を算出して、震災の前後で比較した。(表1参照) その結果、①の3カ月以上遅れた患者の割合は、震災前の18.0%(122人中22人)に対し、震災後は29.9%(97人中29人)。②の12カ月以上遅れた人の割合は、震災前の4.1%(122人中5人)に対し、震災後は18.6%(97人中18人)。 ①、②ともに、明らかに震災後のほうが受診の遅れが目立った。しかも、この傾向は、震災直後だけでなく、震災から年月が経っても続いている。つまり、医療機関の被災が理由ではないことがわかる。 次に、それぞれの家族構成を調べた。 震災後に初めて受診した患者の場合で見よう。①の3カ月以上の遅れでは、子どもと同居していない人が51.5%(68人中35人)に対し、子どもと同居している人が37.9%(29人中11人)。②の12カ月以上の遅れでは、子どもと同居していない人が53.2%(79人中42人)に対し、子どもと同居している人が22.2%(18人中4人)。 ①、②ともに、子どもと同居していない患者のほうが、受診が遅れていることが強く示唆された。 一方で、パートナーとの同居では、あまり差がなかった。また、震災前に受診が遅れた人では、パートナーや子どもとの同居の有無は、決定的な差とは言えなかった。地域のコミュニティーも弱体化
英国の医学誌「BMC Cancer」に
掲載された尾崎医師らの英語の論文
尾崎医師は2017年6月、調査結果をイギリスの医学雑誌「BMC Cancer」に発表した。
尾崎医師はこう語る。
「もともと患者の平均年齢が高い地域なので、パートナーよりも、子どものほうが力になるのでしょう。ところが、同居、あるいは近くに住んでいる子どもが避難してしまうと、症状を気にかけて、受診を促す人もいなくなった。その結果、生活が大変などの理由で、後回しになってしまったと考えられます。うすうす感づいていても、正常性バイアス(危険な情報を軽視したり、大丈夫だと思ったりすること)が働く例もあるかもしれません」
こんなケースもあった。
2016年6月、80歳のひとり暮らしの男性が、血便とめまいを訴えて南相馬市立総合病院を受診した。男性は1年前の5月に血便を自覚していたが、放っておいた。
ステージ3Bの大腸がん(進行直腸がん)で、残念ながら、翌年2月に亡くなった。もっと早く受診していれば、結果は違ったかもしれない。
カラオケ教室の先生をしていた人で、震災前は、地域の友人たちとのつながりが濃密だったという。それが、震災・原発事故後の避難で、人間関係が切れてしまったらしい。
「家族だけでなく、友人知人も減っている。しかも、放射能から逃れるために若い世代を中心に避難したので、高齢化がより進みました。社会構造が変化し、地域全体のコミュニティーが弱くなり、高齢者がサポートを受けにくくなっています」
福島第一原発の事故は、こんなところにも影響を及ぼしているのである。