木口マリの「がんのココロ」(1)
掲載日:2018年3月22日 12時00分
あなたは、ひとりじゃない
今回よりスタートする「木口マリの『がんのココロ』」。がんにまつわる「心」と、がんのはてなを読み解く「その心は⁈」を、ちょっとゆるめにお話ししていきます。かたりべとなるのは、子宮頸がんサバイバー(=体験者)であり、がん関連の取材に取り組むフォトグラファー/ライターの木口マリです。
第1回のテーマは「あなたは、ひとりじゃない」。「がんかもしれない」「がんになってしまった」というとき、多くの人が感じる孤独感についてです。
自分だけが別世界に行ってしまったかのような「孤独」
「がん」というものは、「大変だ」とか「辛い病気」とか、おおざっぱにひとくくりにされているけれど、その中には実にたくさんのものが詰まっているように思います。その多くは、自分の身に「がん」が降りかかってくるまでは想像もしていなかったもの。なってみないと知り得ないことばかりです。
“詰まっているもの”の中で特に大きな割合を占めるのが、心のこと。「がんです」と言われたそのときから、まるで荒波の中を行くような、止まない雨の中に立たされたような気持ちになってしまった人も多いのではないでしょうか。しかし、診察室を出てみれば、人々はフツーに電車に乗り、フツーに仕事をして、フツーに笑い話をしていたりして。人々には自分を取り巻く波も雨も見えるはずはなく、これまでと同じ「日常」が流れているだけ。その中で、自分の世界だけが変わってしまったかのよう。ついさっきまで自分もそこにいたはずなのに。
そんなとき、「私はひとりだ」と思ってしまうことがあります。
「誰にも、私の気持ちは理解できない」と。
親しい友人や、隣に座る家族でさえ遠くに感じてしまうこともあるかもしれません。もしかしたら誰一人周りにいない孤独よりも、たくさんの人が周りにいるときの孤独の方が、より苦しいものがあるんじゃないかと思います。
「私、がんかも!?」死ぬほどビビった20代
……と、言っておいてなんですが、実は、私はがんが見つかったとき、まったく孤独を感じませんでした。それは私が究極に鈍感だからというのではなく、がんになる以前に強烈な孤独を感じたことがあったからです。ちなみに私は自称、とても繊細です。
それほどの孤独を感じたのは、まだ20代で「がんなんて、別世界の話」と思っていたころ。当時は会社員で、毎年のがん検診は欠かさず受けていました。その理由は「仕事をサボれるから」という、ナマケモノ精神からではありましたが。
ともかく、そのころの検診結果は「何もなし」で当たり前。健康なときの病気に対する意識なんて、だいたいそんなものです。
ところがある日、出てしまいました。「要精密検査」という文字が、検査結果の通知にでかでかと(とても大きく見えた記憶があるのだけど、おそらく実際はたいして大きく書かれていなかったと思われる)。
これには死ぬほどビビりました。今となっては「そこまで驚かなくたっていい」と、それこそフツーにある出来事の域からそれほど外れていないものに思えるのだけど、そのときは職場の机に座ったまま、10分間くらい固まってしまいました。そして心は、次第に得体の知れない闇のようなもので覆われていくのでした。社内に響く電話の音も、隣の同僚と笑って話をしていたことも、遠くのことのよう。そんなときに想像するのは最悪のシナリオ。
「私、がんかもしれない。死んでしまうかもしれない」
今思えば、ちょっと行き過ぎなほどの飛躍。しかし、そのときは真剣。
誰にも話せる気がせず、話しても理解を得られない気がしました。「私の周りには、がんになった人はおろか、要精密検査が出たという友達もいない(たぶん)」――そんな思いから、もし話をしたとしたら、
「かわいそうと思われて、自分がもっと辛くなるのでは」
「この人死ぬんだ、と思われるのでは」
「家族が泣くのでは」
と、想像ばかりが広がってしまい、一人で抱え込んでしまいました。話をしたとしても、何の解決にもつながらないと思ってしまったのです。それに「がんかも」という言葉を口に出すだけでも怖い。
そして感じたのが、とてつもない孤独でした。これまでの人生で、このときほど「私はひとりだ」と感じたことはありません。
ところがどっこい、案外ひとりじゃなかった
結局、そのときはがんではなく、定期的に様子を観察していくことになりました。ホッとしたところで、「こんなことがあってね」と、友人たちに打ち明けてみることにしました。すると、みなさんの反応は拍子抜けするくらいフツーだったのです。
「私もそうだった!『死んじゃう』って泣きながら騒いでしまって。ははは」とか、「それ、よくあるよ」とか。
そこで気付いたのは、「なんだ、私はひとりじゃなかったんだ」ということでした。「私はひとりだ」と、勝手に決め付けていただけ。それと同時に、「私も本当に、がんになる可能性があるんだ」とも思いました。
要精密検査の通知は、がんの告知に比べれば、小さな出来事かもしれません。しかし、このときに感じた衝撃は、将来起こるかもしれないことへの覚悟につながり、「ひとりではないのだ」という確信は、勇気の種となりました。
「どんな状況でも、きっと仲間はいる」。それを心に持っていたために、私は2013年に38歳でがんが見つかったとき、まったく孤独を感じなかったのでした。
必ずどこかに仲間はいる
「病気」というものを考えるとき、もっとも恐ろしいことのひとつは「孤独感」です。しかし、必ず仲間はいるはず。ひとりではありません。
がんの治療をしている人や、がんになったことのある人に、「がんの仲間に伝えたいことは?」と聞くと、「『あなたは、ひとりじゃない』と伝えたい」と答えることが多いように思います。それだけ、孤独を感じた人がいるということでしょう。しかし逆に考えれば、それだけ仲間がいるということでもあります。
私は、がんになって以降、様々ながん関連のイベントやボランティアに参加していく中で、相当な数のがん仲間に出会いました。似たような困難を経てきた人たちのため、打ち解けるのも早い。現在、親しくしている人の7割くらいは、がんの人やその家族、がんに関係した活動をしている人たちです。若い人もかなり多くいます。
ちなみに、「患者会はなんとなく行きづらい」という話も耳にしますが、患者会ではないイベントも多くあります。私の場合、単純に“ちょっと楽しそうだから”という気持ちで参加することの方が多いかもしれません。
がんが見つかったとき、私は周囲から「珍しい病気になった人」と思われていたような気がします。確かに、それまでの友人でがんになった人はいませんでした。しかし今では、私の中で「がんは多くの人がなるもの」という感覚になっています。
とはいえ、たとえどんなにがんになる人が多いとしても、一人ひとりにとっては人生の一大事であり、心身ともに大きな苦痛のある事態に変わりありません。そんなとき、「そこに仲間がいる」と思えることは、大きな支えになるのではないかと思います。
「人は、人と歩く」
療養中フォトギャラリー by iPhone ©木口マリ
木口マリ
「がんフォト*がんストーリー」代表
執筆、編集、翻訳も手がけるフォトグラファー。2013年に子宮頸がんが発覚。一時は人工肛門に。現在は、医療系を中心とした取材のほか、ウェブ写真展「がんフォト*がんストーリー」を運営。ブログ「ハッピーな療養生活のススメ」を公開中。