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医療だけが治療ではない、1枚の写真で患者のQOLを高める ~「癒しの空間」、牛尾恭輔先生の思い~

掲載日:2018年7月4日 14時23分

 一口にがんと向き合う、がんサバイバーと言っても、さまざまな人がいる。しかし、年齢、性別、生活や病気の状況などを越えて心に届くのが、「癒しのメッセージ」だろう。がんサバイバー・クラブの「癒しの空間」は、外出するのが困難な人もホッとできるページを目指している。写真や映像を提供してくださるのは、福岡市のNPO法人「癒し憩いネットワーク」。理事長で、九州がんセンター名誉院長の牛尾恭輔先生が撮りためてきた膨大な作品がベースになっている。牛尾先生の思いを聞くと、治療の本質が浮かび上がってくる。(文・中村智志)

母と見た花


山茱萸(さんしゅゆ)
 車いすに乗った60代ぐらいの男性患者が、九州がんセンター(福岡市)の庭で、ある樹木をじっと見つめていた。黄色い花が咲いている。  その表情が目に留まった牛尾恭輔先生(現・九州がんセンター名誉院長)が「何をご覧になっていますか」と尋ねると、「この花は何と言うのですか」と返ってきた。
「山茱萸(さんしゅゆ)です」 「母の郷に咲いていたのを思い出しました。小さいころ、母と一緒に見たんです」 「秋には赤い実がなるんですよ」 「そこまで見られるかどうか……」
 牛尾先生は自室に戻り、写真データベースから山茱萸の実を探してプリントすると、この患者の部屋へ持っていった。男性はうれしそうに写真を眺めた。10年ぐらい前の話である。
 8年ほど前には、老人ホームに入居していた肺がんの男性に、福島県会津若松市の鶴ヶ城の写真を見せると、「子どものころ、ここで遊んでいました」と涙ぐんだ。「冬の華厳の滝に行きたい」という男性の患者が、牛尾先生の写真を見て涙ぐんだこともある。  1枚の写真が、人の心を打つ場面は少なくない。

季節のめぐりは「夏秋冬春」

 牛尾先生が理事長を務めるNPO法人「癒し憩いネットワーク」(福岡市)のデータベースには、こうした癒しの動画が1万1000点以上、静止画が約32万点、蓄積されている。動画はすべて牛尾先生の撮影、静止画も約85%が牛尾先生の作品だ(それ以外は、活動に共鳴した人や患者さんらからの提供)。25年かけて撮りためてきた。

コオニユリ(山口県)
 海も山も街並みも撮るが、花や植物が多い。 「高齢になったりがんになったりすると、身近なものにいとおしみを感じるのでしょう。植物にとっても本望かもしれませんね」  そんなデータベースから選りすぐりの作品を毎月、がんサバイバー・クラブのサイトの「癒しの空間」に提供していただいている。  最新の7月では、宮崎県のハイビスカス、新潟県佐渡島のカンゾウ、山口県長門市のコオニユリなどの写真と動画がある。

 さらに「一行四窓」と題した動画も掲載されている。たとえば「美瑛の丘に立つ1本の大きなポプラの木、四季の衣を着て凛としている」では、最初にこの1行の言葉が画面中央に表示される。  続いて4つの窓のように区分された画面に、北海道美瑛町のポプラの木のそれぞれの季節の表情が映し出される。ほかにも「幾何学的な岩壁を流れ落ちる滝」「雪の降る川沿いの古い温泉街」「光の具合で色合いが変わる火口湖」などがある。どれも、「春夏秋冬」ではなく「夏秋冬春」。春で終わるのが特徴だ。  花も風景も、全国津々浦々のもの。訪れるのが難しくても、十分に楽しめる。

消化管の画像診断から始まった

 あまり医師らしくない試みは、どのようにして誕生したのだろう。  牛尾先生は、1944(昭和19)年、福岡県で生まれた。九州大学医学部を卒業し、1971年に国立がんセンターに入る。放射線診断部長を経て、1998(平成10)年に九州がんセンターに副院長として赴任。2006年から3年間院長を務め、その後、名誉院長になった。2009年にNPO法人「癒し憩いネットワーク」を立ち上げた。  国立がんセンター時代は、当時の主流だったX線の二重造影法で、消化管の画像診断に携わった。どのくらい小さな病変を見つけるか(海外ではセンチ単位のところ、日本ではミリ単位で見つけた)、病変がどこにあるのか、どの病期なのか、が重要になる。どう変化していくのかも見極めなければならない。 「1枚の画像が、その患者の疾患の概念を変えてしまう。画像の力を実感しました」  画像診断を応用したのが、牛尾先生の撮影スタイルだ。
 一つの場所でも、4つの季節で撮影する。お城では、天守閣だけでなく、小天守、やぐら、石垣、崩れそうな石壁も撮影する。春に石壁の間に咲いていたスミレは、秋には別の花に変わっている。  撮影対象が火口湖でも、温泉街の街並みでも、基本姿勢は変わらない。それが、多くの人に届く「癒し」につながる。
「30歳なら30歳の、70歳なら70歳の生きてきた時間があります。それぞれの人が、どんな光景にシンパシーを感じるかもさまざまです。天守閣が好きな人もいれば、スミレにうっとりする人もいます。見る人が、人生を思い浮かべながら、何かを感じ取っていただければうれしいです」
 もう一つ、妻の信子さんの存在も大きい。  信子さんは血液のがん(多発性骨髄腫)であった。2003年6月に54歳で、「ごめんね、さようなら、ありがとう」の言葉を残して旅立った。生前は、牛尾先生の論文の清書をしたり講演用のスライドづくりを手伝ったりしていた。同志のような存在で、牛尾先生は今も信子さんの写真をポケットに入れている。  信子さんの趣味はボタニカルアート。植物をありのままに描く手法である。その姿勢が、牛尾先生の撮影にも通じている。花や風景を美化することなく、あくまで自然体なのだ。牛尾先生と信子さんは、よく一緒に撮影にも出かけていた。 「彼女の思いが、今も私の背中を押してくれています」

がんだけでなく、認知症や受刑者の方にも

 牛尾先生は、2年前からは画像に言葉を載せることもある。「こもれび」「うきぐも」「そよかぜ」「ひだまり」「せせらぎ」……4文字で濁音を入れる。 「清少納言の枕草子の『春はあけぼの』など、昔から4文字は、呼吸のリズムに合っています。濁音は、余情を伴いますよね。鐘の音でも、西洋の教会はカーンカーンですが、日本の寺院はゴーン。濁音です」  このあたりは、藤沢周平の大ファンらしい静謐なたたずまいを感じさせる。  九州がんセンターでは、「一行四窓」のような映像を「癒しのチャンネル」と題して館内テレビで流している。待合室や患者サロンなどのほか、入院患者のベッド脇にあるテレビでも無料で見られる。  今後は、映像に本格的な音楽を乗せることも考えている。九州がんセンターにボランティアで20年以上も来て、ピアノコンサートを開いている女性に声をかけている。「癒し憩いネットワーク」のスタッフの力も借りて、来年にはDVDにする計画だ。まだ一般公開はしていないが、「癒しの短文」データベースも作成している。ライフワークといっていいだろう。 「薬や手術などの医療だけが治療ではありません。1枚の写真で患者さんの心を癒すこともできる。それも、医療者の役目です。写真や映像、言葉、音楽の力で、患者さんのQOL(生活の質)を高めていきたい。がんだけでなく、認知症、体が不自由で自由に外出できない人にも見ていただきたい。先日、ある看護師さんから、刑務所の受刑者に見てもらうのもいいのではないか、と勧められました」  牛尾先生の夢はどこまでも広がっている。 (写真はすべて牛尾恭輔先生よりご提供いただきました。)
牛尾恭輔先生。九州がんセンターの患者サロン室で。
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