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スキルス胃がんで旅立った母に生かされて ~中山みともさんの「めげない」~

掲載日:2018年8月23日 7時16分

 おしどり夫婦の母がスキルス胃がんで亡くなり、落ち込む父を心配して受けた胃の内視鏡検査(胃カメラ)で、がんが見つかる。宝飾関係の外商としてバリバリ働いていたときのことだ——そんなドラマのような展開を地で行ったのが、東京郊外に暮らす中山みともさん(43)だ。胃がんの手術を受けて7年。「めげない」気持ちで乗り切り、周囲にがんを隠さないことで人生の幅が広がっている。(文・日本対がん協会 中村智志)

中山みともさん。どんな質問にも丁寧に答える姿が印象的だった。

私にできることは何でしょうか?

 2018年5月16日、中山みともさんは、東京都江東区のがん研有明病院にいた。治療やお見舞いではない。日本対がん協会会長の垣添忠生との交流会に出席するためである。  垣添は「全国縦断 がんサバイバー支援ウォーク」と銘打って、2月5日に福岡市を出発した。7月23日の札幌市まで、できる限り歩きながら、全国がんセンター協議会加盟の32病院を訪れて、がんサバイバーや医療者らの話に耳を傾けていた。  がん研有明病院でも、山口俊晴院長(現在は名誉院長)らとともに、サバイバーや家族らと向き合って座った。交流会が始まると、夫のすい臓がんが最近再発したという女性が「5大がんの6番目にすい臓がんも入れてもらえないか」と訴えた。前立腺がんという男性からは、「禁煙だけでなく、お酒のほうはどうなのか?」という質問が出た。お酒が好きな垣添が、「私はアルコールには比較的寛容ですが、飲み過ぎず、食事がおいしく召し上がれるぐらいがいいです」と応じた。  真剣な話あり、笑いありの交流会の中盤で、最前列の女性がすくっと立ち上がった。 「中山みともです。8年前に母がスキルス胃がんで、亡くなってしまいました。おしどり夫婦だったので父が落ち込んでしまい、私までがんで死んだらまずいと思い、1年後に胃の内視鏡検査を受けたら、なんと胃の中に4センチのがんが見つかりました」  43歳。検診を受けた病院では「手術はできない」と言われたが、がん研有明病院で手術を受けたという。 「美人薄命と言えないぐらい、こんなに元気になりました。若い元がん患者が、みなさんにできることは何でしょうか?」  垣添の答えは明確であった。 「ご自分の体験をできるだけみなさんに伝えていただきたい。がんが治って元気になった方がたくさんおられます。それが伝われば、がん=死というイメージが、じわじわと変わっていきます」  続いて、隣にいた父の中山良一さんが立ち上がった。 「親です。家庭内で支援しています。胃袋が3分の2ないのに、毎日酔っ払って帰ってきます。社会にはまだ偏見が多く、がんと言いづらいところもあるようです。偏見をなくす活動が盛んになればいいなと思います」 がん研有明病院で語る中山みともさん。手前は父の良一さん。左端は垣添忠生・日本対がん協会会長(5月16日)。  

1人で生きていけるように手に職を付けろ

 中山みともさんは1975(昭和50)年2月10日に生まれた。「みとも」は、漢字では「美智」と書く。「美」と「智」はともに、母の光子さんが好きな文字だった。  両親は当初、「智美(ともみ)」と名付けようとしたが、福岡県に住む父方の祖母が、「近所に智美というはな垂れの子がおる」と反対して、「美智(みとも)」になった。  父方の曾祖父は炭鉱を経営しており、食道がんになったが、90歳を超えて生きた。祖父は国鉄勤務。野球チームに所属し、投手で4番打者。プロ野球から誘いがかかるぐらいの実力だったという。父の良一さんは、九州大学法学部卒業後に日本鉱業(現JX金属)に入社。新人として配属された大分県の製錬所で、母の光子さんと出会った。良一さんは1948年12月、光子さんは49年3月生まれの同学年だ。  やがて東京へ転勤となり、みともさんと、4歳下の妹の美紀さんが生まれる。  両親ともに「1人で生きていけるように手に職を付けろ」という教育方針。みともさんは、バスケットボールをやっていて、青山学院大学では体育会に入った。身長158センチの体で、180センチ以上の選手に混じってプレーした。筋トレに励み、スクワットを120キロも上げたという。インカレで銅メダルを獲得した。 「太ももの筋肉が割れるほどで、ジーンズを履こうにも太ももが入りませんでした」  一方で日本文学を学び、教職を目指した。中高の教員免許を取得したが、就職氷河期で教師の口はない。受験をあきらめ、社会経験を積んでから再度挑戦しようと考えて、宝飾関係の卸商社に就職した。良一さんがそのころ、日本鉱業が始めた宝飾事業に携わっていたことに影響されたという。  みともさんは、1997(平成9)年の入社後、外商で実績を上げた。ただ、展示即売の会場などで名札を付けても、誰も「みとも」と読んでくれない。上司に勧められて、ひらがなを使うようになった。

元気な「卓球おばさん」が……

 一家に突然の変化が訪れたのは、2009年の暮れであった。  母の光子さんが、「胃の調子が悪い」と言い始めたのだ。  光子さんは、地元の東京郊外で卓球チームのキャプテンを務めていた。平日の日中は体育館で練習や指導、土日は試合という日々。運動神経もいい。 「元気な卓球おばさんで、大会で、マグロのサクとかかまぼこといった名産を景品にもらってきました。毎年11月に人間ドックも受診していて、何も見つかっていなかった。ただ、もともと悩むと胃の調子が悪くなるタイプで、ときどき胃薬を飲んでいました」  年が明けて1月半ばごろ、地元のクリニックで「胃炎」と言われ、胃薬を処方されたものの治らない。1カ月後、別の病院で胃カメラで検査してもらうと、「ものすごく荒れています。大きな病院で診てもらったほうがいい」と診断された。  風呂場で母の後ろ姿を見たみともさんは、やせているので驚いた。3月上旬に近隣の大学病院を受診し、診断結果が3月下旬に出た。結婚して名古屋市にいた看護師の妹が戻ってきて、大学病院で結果を聞いた。もっとも家族は大病とは思わず、良一さんは仕事、みともさんはスキーに出かけていた。  スキーから帰ろうとしたとき、妹から電話があった。 「大学病院から、『入院してもしなくても、あと3カ月。詳しい検査結果が出るまで10日かかる』と言われた」    進行したスキルス胃がん。良一さんには、みともさんから連絡した。 「ママ、がんのステージが進んでいるみたい。私もすぐ帰るから、パパも帰ってきて」  自宅近所のモスバーガーで3人で作戦会議を開き、がんの専門病院で診てもらうことにした。良一さんが知人の紹介で「がん研有明友の会」に入っていたことから、がん研有明病院を選んだ。母には余命宣告の話を伝えないことに決めた。  がん研有明病院の山口先生が診察して、「まずは元気を回復させて、それから抗がん剤治療をやりましょう」と方針を示したという。みともさんには、こんな場面が印象に残っている。 「山口先生が母に、『あなたは私と同い年なのに、ずいぶん老けて見えますね』とおっしゃったのです。母は『何ですか!』と怒りました。母を奮い立たせるためだったんですね。その後、『復活するためにがんばりましょう』と握手していました」  スキルス胃がんでは、胃が硬くなってしまう。のどが詰まる感じで、口から食べることもできない。1週間ぐらい栄養を入れてから抗がん剤治療を始めると、胃がやわらかくなり、食べられるようになったという。

「あ」「い」「し」

若いころの中山良一さん、光子さん夫妻。
 病状は、腹膜播種(お腹にがん細胞が散っている状態)があり、リンパ節にも転移していた。みともさんは本などを読んで、勉強した。母には「抗がん剤で胃をやわらかくして、がんが小さくなったら手術もできるよ」と励ました。  しかし、残念ながら腹部全体にも転移し、肺にも水がたまってきた。  5月の連休明け、抗がん剤の休止のときに退院し、自宅マンションに帰ってきた。妹も愛犬とともに戻ってきて、犬がいるので自宅近くに部屋を借りた。「あなたもどこかに部屋を借りて出て行って。朝早いし夜も遅いし。疲れちゃう」と言われ、みともさんも部屋を借りた。  4日後、症状が悪化したため、母は病院に戻った。何かあればナースコールを押せる安心感があった。  7月末、2泊3日の予定で退院した母は、マンションから見える多摩川の花火大会を楽しんだ。抗がん剤で匂いに敏感になり、みともさんがジャガイモのスープを作っても1口ぐらいしか飲めなかった。腹水がたまり、足がむくんだ。  8月に入ると、みともさんも会社を休み、良一さんと交代で病室に寝泊まりした。妹は犬がいるので、昼間来て、夜帰った。  そして8月26日。午前6時半、病室に看護師が飛んできて、泊まっていたみともさんに「2人をすぐに呼んだほうがいいです」と伝えた。父と妹がタクシーで駆けつけたが、光子さんが持ち直す。夕方、妹が病室を後にしてほどなく、呼吸の回数が減ってきた。    みともさんが妹に電話をかけて呼び戻し、再び3人がそろう。良一さんと妹が光子さんの顔の左右に、みともさんは足元に立った。  体重が1カ月で10キロも減ったという良一さんが、光子さんに大声で叫んだ。 「愛してるよ」  光子さんが、かすかな声で応えた。 「あ」「い」「し」  それが最後の言葉になった。

40歳にはなれない

みともさん(右)、美紀さん姉妹(2010年)
 それから1年ぐらい、良一さんは、毎日お風呂から嗚咽が聞こえるぐらい泣いていた。 「もし私に何かあったら、パパは精神的にもたないかもしれない。検診を受けておかなくては」  みともさんはそう考えた。実は母と同様に、30歳の手前から、悩むと胃が痛んだ。念のため、がん特約を付けてコープ共済に入った。    光子さんが逝った翌2011年の真夏、みともさんは伊豆へ遊びに行った。ビーチで友だちとお酒を飲んだ。グレープフルーツの缶チューハイを10本ぐらい。夜はペンションのレストランで、ワインを1人1本空けた。  真夜中、突然、胃が痛くなった。転げ回るような感じだった。いつも胃が痛むときのように、水をたくさん飲んだ。しかし、治らない。脂汗が出てくる。鎮痛剤を飲み、明け方になって疲れ果てて少し眠った。  翌日に帰京。銀座のかかりつけの病院に行くと、医師がこう話した。 「中山さん、冷たい柑橘系の炭酸飲料をたくさん飲んだ覚えがありますか? 胃潰瘍だとしても、このままでは、たくさんの薬を飲み続けることになります。もう36歳ですし、1度、胃カメラをやったほうがいいと思います」  9月初旬、胃カメラの検査を受けた。鎮静剤が覚めるまで院内で休んでいると、いつも明るい同世代の看護師が入ってきて、院長から話があると告げた。 「悪いということですね?」 「いや、そういうことじゃないです」  看護師がすっと目をそらした。  1時間後、院長が胃カメラの写真を見せながら、口を開いた。 「ちょっと、あんまり、よろしくないものが見つかったんです」  4センチのがんがあり、周囲に胃潰瘍が5、6個あるという。みともさんは、写真を見て、母の光子さんの胃によく似ているなと思った。 「これってけっこう、まずいですよね。切れない段階ですよね?」 「……そうですね、そう見えます」  父に電話して、「そんなに悪くないと思うけど、専門のところで診てもらいたい」と、がん研有明病院への予約を頼んだ。3秒ぐらい沈黙があった。  父と妹には黙っていたが、「切れない」と診断されて、みともさんは、「40歳にはなれない」と思った。ずっと「いつ死んでもいい」と好きなことをやってきたが、そんな言葉でくくれるほど軽いものではなかった。死がすぐそこにある。そんな気がした。

術後1年間、ノートに綿密に記録

 3日後、父、妹と3人でがん研の診察室に入った。山口先生にかかりつけの病院から提供された写真を見せると、こう言われた。 「あなたはラッキーです。私の経験上、このがんは治る」  想定外の言葉に、みともさんは力が抜けた。問われるままに胃がんが見つかった経緯を話すと、こうも言われた。 「お母さんに命を救われましたね」  手術前に改めて内視鏡で調べると、4センチのがんの右下に1センチのがんもあった。ステージ2。母と違い、スキルスではなかった。  約2週間後の9月27日に手術。胃を、上部3分の1を残して切除した。周囲のリンパ節の郭清(切除)も行った。抗がん剤治療はなかった。  みともさんは術後1年間、食べたもの、体重、体調などをノートに綿密に記録している。 【9月28日 術後1日目 水300ml】  に始まり、翌29日は「ジュース 点滴」、30日は「3分粥 点滴」などと続き、 【10月1日 5日目 全粥 点滴←夕方とれた】 【10月5日 8日目 全粥 ハーゲンダッツ(半分)】 【10月7日 10日目 退院 全粥 朝、病院食 昼、みそ汁の卵(×2)、萩の月、ピノ(5ケ)、ポテサラ、白菜と豚肉の煮物……】 【10月10日 13日目 全粥 朝、パン半分、クリームシチュー、ポテサラ……ウォーキング2h】  ときに「☆山イモは細かくすると腹が張りすぎる(流れにくい?)」「※濃い飲むヨーグルトは腹にキツイ」「夜ごはん中に何故か吐き気」などと注意書きもしている。  10月28日は、術後、初めての外来。ブリ煮やさしみ(漬け)などを肴にお酒を解禁、プロセッコというイタリアのスパークリングワインを2杯半、飲んだ。 「私は毎日6合飲む人だったので自信はあったのですが、炭酸がお腹のなかで膨らんで、動悸がして、死ぬかと思いました」  翌日からは、お酒は焼酎のお湯割りに切り替えた。食事は、術後半年ぐらいからふつうに戻った。ただ医師の指示に従い塩分を控え、お酒も以前の7割ぐらいに減った。 みともさんのノート。毎日、詳細に記録していた。

「ふつうはお腹見せないでしょ!」

 会社は、10月いっぱい、たまっていた代休で休んだ。その間もときどき、仕事のリハビリとして展示会には行った。正式な復帰は11月。がんのことは、社長、口の堅い同僚、一緒に外商事業を成長させた親しい上司に伝えた。この上司には、最初の検査直後に打ち明けた。その晩、小田和正を聴いて泣いてくれたという(上司は後に大腸がんになり、今度はみともさんが支える側に回った)。  折り合いの悪い所属長には、「胃が悪くなったので休みます」とだけ伝えた。がんを理由にチャンスを奪われることを警戒したからだ。  みともさんは、考えるところがあり、翌2012年7月末で退職。翌日から、父の良一さんがかつて立ち上げたJX系の宝飾会社に入社した。大手町のビルにある店舗の店長となった。ビルが閉まる土日は外部の展示会で販売したが、2014年3月に会社が解散となった。  そして、会社の重要な取引先だった「アイ・ケイ」に転職。現在まで、長年培った営業力を生かして、海外から仕入れたダイヤモンドなどを問屋や百貨店のテナントなどに卸す仕事をしている。  
横浜赤レンガ倉庫で開かれたオクトー バーフェストでビールを飲む(2014年)。
 みともさんは、最初に転職してからは、職場でもがんを隠さない。入社の挨拶で公表する、という形式張ったものではなく、何かのタイミングで周囲に話す。  男女を問わず、腹腔鏡の手術の痕も見せる。 「手術って、そんな小さな傷でできるの? そもそも、ふつうはお腹見せないでしょ!」  と驚かれるが、意に介さない。 「手術は、新しいビキニを買ったすぐ後だったんです。高かったのに悔しかった!(笑) 手術痕があるのは、ビキニを着ていれば見える部分ですからね。見せてもいいんですよ(笑)」  オープンにすることで、周囲と、がんをめぐる話ができるようになった。 「ちょっと胃の調子が悪いけど、どうしたらいいかな……」といった相談には内視鏡検査を勧める。「実は私もがんなのよ。今も通院してるの」から会話が弾むこともある。公表していない友人から「親も自分もがんになった。小学生の子どもが2人いて、不安」と悩みを打ち明けられる。 「がんになったことがない人は、無邪気に楽観的に考えられます。でも、1回でもがんになると、気持ち的には元へは戻れない。検査と検査の間の不安も、よくわかるんです。社会が、みんなが支え合えるようになれば、がんもふつうの病気と一緒になってくる。でも、実際にはまだ圧力をかける人もいます。『かわいそう』と同情されることも、本人には負担になると思うんです」

肝が据わってきたのでしょうか

光子さんが他界したあと、家族全員で 作ったおせち料理。中山家の味は受け 継がれている。
 みともさん自身は、特にさらなる治療はしないまま、手術からちょうど6年が経過した2017年9月、主治医に「完治です」と言われた。今後は2年に1回、がん検診を受ければいいという。  仕事を引退した父の良一さんは料理が得意だ。魚の煮付け、肉じゃが、鍋料理……お餅を入れない雑煮を年中作っている。みともさんは退社後に飲んで帰ることが多いが、帰宅後に父の手料理を食べる。  趣味のゴルフも楽しんでいる。ベストスコアは、80(8オーバー)。小説も読む。「芥川龍之介の『蜜柑』は、奉公に行く13、14歳の女の子が列車の窓から弟たちにみかんを投げる場面で、暮色の中にオレンジがパッと散るでしょう。そんなふうに、文章の向こう側に色が見える作品が好き」だという。  長年の座右の銘は、「めげない、あきらめない」。母のがんをきっかけに始まったさまざまな“ピンチ”も、この気持ちで乗り切ってきた。 「がんになってから、大失敗をしても、何とかなると思えるようになりました。肝が据わってきたのでしょうか。怖いものがなくなった。かっこわるいんじゃないか、という表面的なことも気にならなくなりました」  インタビューの終わりごろ、みともさんは突然、「太ったからわかりにくいかも」と笑いながら、私にお腹を見せてくれた。痕は、わずかに確認できるぐらいであった。
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