脱毛は、最初はだれでもコワいもの
抗がん剤の副作用のうち、多くの人が精神的苦痛を感じるとされる「脱毛」。私はどうだったかと言うと、確かに髪は抜けたけれど、結果的にショックの「ショ」の字もなく、逆に意外なほど興味深く楽しい時間を過ごした、という具合でありました。
しかし、最初からそんな心持ちだったわけではありません。なにせ、「薬の影響で髪が抜ける」なんて初めての経験ですから。
とかく、抗がん剤は“怖い薬”としてのイメージが根強い。体を治してくれる、言わば正義の味方であるはずなのに、「抗がん剤をやりましょう」と言われたら「どんなひどいことが起こるのか」の方が前面に出てきて、泥沼に沈むような気分になってしまうこともあるかもしれません。私が思ったのは「そんなものに耐えられるのだろうか」でした。
ところがどっこい現代の抗がん剤事情は、我々一般人の想像をはるかに超えて進歩しています。なかには「脱毛しない」「吐き気がほとんどない」という薬も開発されているのでした。それに、「抗がん剤は無数に種類があり、それぞれに副作用が異なる」というのも後で知った事実。さらには、同じ薬を使っても、患者によって副作用の出方が違うことも多いという。つまりは、脱毛や吐き気を含むさまざまな「副作用出るかもリスト」のうち、人によってはまったく出ないものもあるのでした。
「じゃあ、私も脱毛しない、なんてこともあるかもしれませんか?」と主治医に聞いたところ、「絶・対・に抜けます(この薬の場合)」と断言されるという。
……あ、そ〜ですか。絶対抜けるんですか。
しかし、そこまでスパッと言われると、抜けるのが普通なんだという気がしてきます。それに、曖昧な期待と不安を行き来しなくてすむのはありがたい。漠然と、「覚悟しとくか」という気持ちになり、改めて心の準備を整えていくのでした。
繊細なキグチの脱毛準備
そうは言っても、どことなく湧いてくる不安。“ボウズ化”は、「もしかしたら、それはそれでちょっと楽しめるかも」という心境になりつつも、実際に抜けゆく髪を見たら予想外にショックを受けてしまう可能性もあります。特に、自分の心がそれほど強くない(というか、弱い)と分かっているため、そんな自分のための対策をいろいろと考えておく必要がありました。
当時の私の髪はロング。その長さの髪が抜けていくのは、相当なインパクトに違いない。さすがにこのままではいかんと思い、まずは、病棟に設置されていた脱毛に関する資料をかき集めることを開始。廊下ですれ違う先輩患者さんたちの髪の長さを観察したり、看護師さんに話を聞くなど、研究を始めました。
ここで、抗がん剤治療を受けたみなさんの「あるある」をひとつ。
それは、「脱毛前に、髪をバリカンで刈ってしまう」!! どこぞやのドラマでも、そんなシーンを見たことがあります。
たしかに、それなら抜け落ちる髪を見てショックを受けることはないし、部屋に髪が散らかることもありません。ひとつのアイデアと言えるでしょう。でも、熟考の末、私が選んだのは「ボブ」。いわゆる、おかっぱです。
その理由は、まだがんばって頭を守ってくれている髪を刈ってしまうのは、何となく偲びなかったから。そして、どんなふうに抜けていくのかを観察するのにちょうどいい長さだったからでもあります。ロングほどびっくりせずに、落ち着いて観察できそうだ、と。
そう言うと、「だいぶ心の余裕があるのでは」と思うかもしれませんが、そうでもありません。これから受けるかもしれない衝撃の大きさは、まだまだ未知数でした。でも、なかなかない機会なので、ただやり過ごすのではなくしっかりと見ておきたいと思いました。単なる好奇心が半分と、今後何か(誰か)の役に立つ気がしたのが半分だったと思います。
抜けゆく髪に思う
投薬から2週間弱が経ったころ、脱毛が始まりました。「やっぱり私は抜けないんじゃない?」などと、このごに及んで微妙に楽観的になりつつあった私なんておかまいなく。
病棟の看護師さんから「ゴソッと抜ける」と、ブキミな効果音付きで説明を受けていましたが、私の場合はそうはならず。シャンプーで抜ける髪がいつもより多い程度でした。日を追うごとに増えていきつつも、“ボウズ化”するまではまだまだ時間がかかりそう。髪って、いったいどれだけあるんだ。
そして気になる精神状態。「やっぱり抜けるのか!」と思ったものの、特にショックではありませんでした。
治療が終わればまた生えてくるものだし、出家でもしない限り、自分のボウズ姿を見ることはありません。そんな、一生に数少ないチャンスでもあります。自分で望んでそうなるかどうかに関わらず、「今のこの時間を、どうすれば一番楽しめるだろうか」と思ってみてもいいはず。「抜けること」はうれしくないけれど、「そこから何ができるか」には、たくさんの期待がつまっていました。
ただ、これから抜ける髪に対して少しだけ感傷に浸ることはありました。
頬に触れる髪が、柔らかくあたたかいのです。体から生まれた髪だからこその、ぬくもりがありました。
私は、とてもいいものを持っていたのだなあ。これまでは、うまく整わなければイライラしたりして、ファッションの一部のようにさえ思っていたかもしれない。ずっとそこにあったから、その存在のありがたみを感じることもありませんでした。
ものごとの大切さは、失うことが現実となって、やっと気付くもの。当たり前にあるものなんて、何もないのだと思います。髪もそうだし、今、隣に誰かがいてくれることも、朝目覚めることや、呼吸ができることも。どうして人は、そこまで迫られないと自分のこととしてとらえられないのだろう。
でも、それを感じたときが、感じるべきときだったのだとも思います。たとえそれが「今、まさに失う」というときであっても、感じなければ得られないものはあるはずです。
ただ、気持ちが落ち込んでいるときには、「そんなものは何もない。考えられない」ということもあるでしょう。そういうときは、「今は、思考せずに心を休める時間」なのかもしれません。その時間は、人によって違いますし、ゆっくりと、自分なりのペースでいればいいと思います。
今回、私が脱毛することで得たものは、「自分でコントロールできない状況だからこそ、見えていなかったものが見えてくる」ということでした。「脱毛を楽しむ」という発想もそのひとつです。
次回の「木口マリの『がんのココロ』」も、引き続き脱毛がテーマ。「キグチ的、脱毛の楽しみ方」や「なぜ楽しめる心境にいたったか」について書きたいと思います。
木口マリ
「がんフォト*がんストーリー」代表 執筆、編集、翻訳も手がけるフォトグラファー。2013年に子宮頸がんが発覚。一時は人工肛門に。現在は、医療系を中心とした取材のほか、ウェブ写真展「がんフォト*がんストーリー」を運営。ブログ「ハッピーな療養生活のススメ」を公開中。